フランス革命はなぜ起こった?その2
前回の続き
王家はいる?いらない?
人権宣言だけでは不十分。球戯場の誓いの通り、国民議会の議員たちは、フランスで初めての憲法を作るために、動いていました。一方で、国王ルイ16世は、自分の権限がどんどん縮小されていくことに不満を覚えていきます。
1791年6月20日、マリー・アントワネットと親しかったスウェーデン貴族フェルセンらの協力を得て、国王一家はひそかにパリを脱出。向かうは当時オーストリア領だった現在のベルギー(フランスの北隣)です。しかし結局国境まで数十キロのヴァレンヌという村で国王一家は見つかり、パリに連れ戻されてしまいました。
国の代表たる国王が国を捨てて逃げようとした!このヴァレンヌ逃亡事件により、王家の信用はガタ落ち。ついには国王廃位を求める声まで出てきます。

こうした中、議員たちの汗と涙の結晶、念願の憲法が9月3日に制定されました。この1791年憲法では、国民主権と三権分立が定められ、国王には議会に対する拒否権が残ったものの、その権限は大きく制限されました。ただ、女性には参政権はなく、男性の選挙権も、ある程度の収入がある人(つまりはブルジョワ)にしか与えられないなど、現代の目から見れば問題の多いものでしたが、当時としてはこれでもかなり画期的な、まさに革命的な憲法でした。
憲法ができたことで国民議会はその役目を終え、憲法をもとにした法律を作る立法議会が、10月1日発足します。しかし直前に起きたヴァレンヌ逃亡事件への対処などをめぐり、議員たちの足並みは揃わなくなっていきました。政治を裏で支えていたジャコバン・クラブも分裂。メンバーはその考えによって、「フイヤン派」「ジロンド派」などと呼ばれるようになります。
ざっくり言えば、フイヤン派は「91年憲法を重んじよう、王政も残そう」という人々で、メンバーにはシェイエスや、アメリカ独立革命に参加した経験もあるラ・ファイエットらがいました。
ジロンド派は「革命をもっと進めよう。そのためには王政廃止もやむなし」と考える人々で、ジャーナリスト出身のジャック・ピエール・ブリッソや、経済学者ジャン・マリー・ロラン、その妻で陰の実力者ジャンヌ・マリー・ロラン夫人(女性ゆえに議員にはなれなかった)らがいました。
立法議会はこののち、亡命した貴族の財産(土地など)を没収したため、多くの貴族たちは反革命の意思を明確にします。また、フランス本国の革命に影響され、大西洋上の仏植民地(現在のハイチ)でも、黒人奴隷の反乱が勃発。ここで生産された砂糖が入りにくくなり、物価は上がる一方でした(ハイチは1804年独立)。
一方、フランス以外の国王たちは、革命の影響が自国に及ぶことを恐れ、フランスにできた革命政府に否定的な立場をとるところが多数派でした。1791年の8月には、オーストリアとプロイセンの君主が、「革命政府は認めん!ルイ16世の権威を回復しないと、攻撃するかもよ」と脅しをかけました(ピルニッツ宣言)。
これに対し、フランス世論はかえって両国への反発を強めます。立法議会を引っ張っていたジロンド派の政府も、こうした声に応え、また物価上昇などの不満を「外」へ向けるため、1792年4月オーストリアに宣戦布告しました。ルイ16世もこの戦争を支持しましたが、これは「貴族=軍人が減っている中、オーストリアに勝てるわけない。革命政府の評判が落ちるぞ」と期待してのことだったそうです。政府と世論、国王の思惑はバラバラなのに、戦争を支持するという面だけは一致してしまったという、なんとも皮肉な話です。
王国廃止
予想通りフランスは、当時の大国オーストリアに連敗。革命政府も「フランスは危機的状況にある」と認める事態に。しかしこの期に及んで、ルイ16世は、革命政府の決定に拒否権を発動するなど、非協力的態度を続けていたため、国王への不満がどんどんエスカレートしていき、1792年8月10日爆発してしまいます。この日パリ市民は、王族の住まいだったテュルリー宮殿に押し寄せ、激しい銃撃戦となりました。
政府はこの事態に「王権の停止」を宣言。騒動を防げなかった立法議会は解散し、9月21日新しく国民公会が成立します。翌22日、国民公会は正式に「共和政」を宣言し、フランスは国王不在の「共和国」となりました。ちょうど同じ頃(9月20日)、フランス軍がプロイセン軍に歴史的な勝利をあげました(ヴァルミの戦い)。こうしてフランス革命は新たなステージに入ることになります。
共和政が始まったことで、王政を前提とした91年憲法に代わる憲法が必要となります。しかしそれをどのような内容にするかで、今度はジロンド派の内部分裂が起こりました。この中で最も急進的だった人々は、ジャコバン派あるいはモンターニュ(山岳)派と呼ばれ、ロベスピエール、ダントン、マラーといった人々が中心でした。憲法とともに問題となったのが、“元”国王ルイの扱い。ジャコバン派は、王政復古を恐れて国王を裁判にかけたうえで処刑することを主張しますが、ジロンド派は慎重な姿勢を崩さず、裁判自体に反対します。
しかしフランスの危機的状況は、元国王に死刑の判決を下します。元々死刑制度の廃止を訴えていたロベスピエール自身が、「祖国が生き残るために、ルイは死なければならない」と演説するほど、事態は切羽詰まっていたということでしょうか。1793年1月国民公会は投票によりルイの死刑を決定(しばしば1票差で決まったといわれていますが、票のカウント方法には諸説あるようです)。8月10事件以降、家族とともにパリ市内のタンプル塔に押し込められていたルイは、1月21日ギロチンのつゆと消えました。
内にも外にも敵が!?
この頃、フランスと外国との戦いは、意外にもフランス側が優勢になっていました。革命を潰されないために必死な人々は、次第に祖国を守るという思いを強くし、団結を強めていました。そのため士気の高さでは、思惑もバラバラなオーストリア軍やプロイセン軍に勝っており、1792年から93年にかけて、フランス側は支配地を拡大していきます。
これに元国王の処刑という衝撃的なニュースが加わり、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペイン、オランダなどのヨーロッパの国々は、対仏大同盟を結成。
またしても追い詰められたフランス革命政府は、大規模な徴兵制に踏み切ります。これに対し、そもそも革命の恩恵が薄かった地方で、人々の不満が爆発。西部ヴァンデ地方を中心に、パリの革命政府に対する蜂起が起こり、各地に広がっていきます。パリ側はこれを「反革命」として徹底弾圧に乗り出しました。まさに内憂外患の状態。
こんな状況下にもかかわらず、いや、だからこそなのか、政府でも政策をめぐって内部対立が激化。このなかで、「革命を守るには手段を択ばない」ジャコバン派が、ジロンド派より優勢となっていきました。しかし革命を徹底的に進めるという強すぎる思いは、「自分たちへの批判はすべて反革命だ!」という恐ろしい思想へと変化していきました。3月に革命裁判所、翌4月に公安委員会が設置され、「反革命」とした人々を容赦なく逮捕していきました。
変わる社会
フランス王家の正当性が革命政府のギロチンによって否定されたように、王家と関係の深かったキリスト教に対しても、これを否定する声や動きが出てきました。革命の進行により聖職者(元第一身分)はその権限や財産を失い、しだいにこれに抵抗するようになります。ゆえに民衆からは「反革命」と見なされ、攻撃の対象となっていきました。十字架は取り払われ、宗教画もイエスやマリアの像も破壊されていきます。
代わって、自由の象徴する「樹木」や「女性」の絵が描かれるようになりました(フランス語で「自由」の単語は女性名詞)。地名も、王家やキリスト教に関係するものは変更(例:モン・サン・ミシェル→モン・ミシェル)され、キリスト教の影響を受けていた暦も一新されます(革命暦)。例えば月の名前も「テルミドール(熱月)」「ブリュメール(霧月)」など、フランスの季節をモチーフとしたものに変えられています。
また、周囲の国が敵になったこともあって、フランス国内の統合が図られました。そのために、フランスの三色旗や、革命をたたえる歌「ラ・マルセイエーズ」が大いに活用されました。
国内の度量衡(ものをはかる単位)も、以前は地域によってバラバラでしたが、これも全国レベルで統一されました。これが現在も世界中で広く使われている「メートル、グラム、リットル」です。こうしてフランスに住む人々は、「国民」として統合されていきましたが、その反面「外国人」は敵視、排除の対象となっていきます。
恐怖政治始まる
ジャコバン政府の中心に置かれた公安委員会は、11~12人のメンバーによる多頭政治でしたが、その中心人物とされたのがマクシミリアン・ロベスピエールです。彼は生真面目で腐敗とは無縁、理想のためにどんな犠牲も厭わないという性格でした。
同じくジャコバン政府の重鎮、ジュルジュ・ダントンは情熱的で豪快な人物で、ライバルたるジロンド派との妥協などを試みるなど人間味溢れる人物。ジャン・ポール・マラーは、時に過激な発言を行いながらも、一貫して民衆の立場から物事を考え、「人民の友」という異名を持っていました。

しかし、1793年7月13日、マラーが暗殺されます。しかも彼を殺害したのが、シャルロット・コルデという、地方出身の若い女性だったことが、「いつどこに反ジャコバン派がひそんでいるかわからない」という危機感をうみました。政府は少しでも怪しい人物を容赦なく逮捕するようになり、また出版物の検閲も始まました。こうして恐怖政治が始まります。なお、暗殺の直前には、男子普通選挙や社会権を明記した「1793年憲法」が完成していたのですが、非常事態の中、これが施行されることはありませんでした。
公安委員会と革命裁判所により、ジャコバン派にとって邪魔な存在、あるいは少しでも脅威と感じる存在は、次々と処刑されていきます。その代表格が、王妃マリー・アントワネットでした。彼女は確かにルイ16世以上に革命に対して反発していました。しかし裁判所で読み上げられた罪状の中には誇張やでっち上げ、今でいう週刊誌レベルのゴシップも少なくなく、それにもかかわらず熱狂した民衆から誹謗中傷される中、その生涯を終えました。
この後、1793年から翌年にかけてジロンド派のブリッソやロラン夫人、女性の権利を訴えたオランプ・ド・グージュ、「質量保存の法則」を発見した科学者のラヴォアジェ、ついには同じジャコバン派の仲間であったダントンまでもが、様々な理由をつけられて、ギロチンにかけられました。
こうなると、「次は自分が処刑される、それならば!」という思いを抱く人々が現れるのも必然。1794年7月27日、国民公会での演説中に、ロベスピエールを非難する声があがり、あっという間に彼は逮捕。翌日、ロベスピエールとその支持者たちは、あっけなく処刑されました。「テルミドールの反動」と呼ばれるこの出来事は、理想に走りすぎて止まれなくなった革命の暴走にブレーキをかけるものでした。
嵐は去ったけれど
こうして、ジャコバン派政府による恐怖政治は終わり、ジャコバン・クラブも閉鎖されました。翌1795年には新憲法が制定され、国民公会に代わる総裁政府が発足します。この政府はトップの総裁を5人とし、毎年1人が交代。また二院制を採用するなど、権力の分散が徹底されました。また、選挙権はある程度の収入を持つ男子に限られるなど、前の憲法より「後退」した面も見受けられました。
総裁政府の時代は5年に及びますが、それ以前の5年間と比べると極端な事態は起こらなくなります。しかし、反動の波に乗って王政を復活させようとする保守勢力(王党派)や、再び革命を進めようとする革新勢力(ネオ・ジャコバン派など)も力を取り戻していきます。
1796年には、平等な社会を目指して総裁政府を転覆させようとした、バブーフの陰謀事件が発生。これを機に政府は保守化しますが、王政の復活には一貫して反対。左右両勢力を排除するために、法律や選挙結果を無視するような、本末転倒な行動を起こすこともありました。当然内部では腐敗が進み、総裁政府への批判もエスカレートしていきます。

ナポレオン登場
総裁政府の面々が人望を失う中、輝かしい活躍で人気を得たのがナポレオンです。元々コルシカ島の下級貴族だった彼は、「生まれ」よりも「実力」を評価されるフランス革命の中で出世。1795年にパリで起きた大規模な反乱を鎮圧し、1797年にはイタリアを舞台にしたオーストリアとの戦争で勝利をおさめ、名声を得ます。1798年にはエジプトへ遠征し、ロゼッタストーンの発見にも関わりました。
1799年、政府の総裁に、かつて『第三身分とは何か』を著したシェイエスが就任しました。彼はすでに総裁政府を見限っており、新たな政府を立ち上げようと計画していましたが、計画実現のために、エジプトからナポレオンを呼び寄せます。この軍人の人気を利用しようとしたのです。
1799年11月9日、無血クーデターが成功し、統領政府が誕生します(ブリュメール18日のクーデター)。するとナポレオンは民衆の支持のもとあっという間にシェイエスを追い越し、自分が最高権力者となってしまいました。統領政府の成立とともに、彼は「革命は終わった」と宣言しました。
ナポレオンはその後、革命の理念を『ナポレオン法典』という形にしましたが、直後に自身は皇帝に就任。フランスは新たな時代を迎えます。ナポレオン時代のフランスは、ヨーロッパ中に多大な影響を与えたものの、10年ほどで終焉を迎えました。続くウィーン体制では、なんと王政が復活、ルイ16世の弟がルイ18世として即位しました。しかし、この王政復活劇には、フランス革命を体験した多くの国民が反発し、新たな革命を招くことになります。
歴史の教訓
このように、フランス革命は、決してストレートに自由をもたらしたものではありませんでした。
独裁者が倒れれば、次に権力を握るのが誰か、と新たな争いが生じます。変革を進めれば、変化を嫌がる人が反発します。社会は、理想と現実の間を行ったり来たりしながら、その間に多くの人が血や涙を流しながら、変化していくものなのかもしれません。
こうした現象は、フランス革命の後も、明治維新やロシア革命、最近ではアラブの春などでも見られました。変化の激しい昨今、その背景に何があり、どのように変わっていくのか、そこに潜むリスクはどんなものか。フランス革命の流れを見れば、何らかのヒントが得られるかもしれませんね。