紀元前6世紀~4世紀 ~世界を変えた哲学・思想~
今回は紀元前6世紀~紀元前4世紀の300年を見ていきます。この時代は、ギリシャ哲学、仏教、儒教といった、後の世界を変える思想や哲学が生まれた、ある意味人類の知性、理性に最も大きな影響を与える300年でした。
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もくじ
ギリシャ
アテネでは、BC594年ソロンがアルコン(政治のトップ)に就任します。彼は法律を変えて、平民(多くが農民)の債務奴隷化を防ぎました。当時、貧困ゆえに貴族に土地を奪われ、小作人や更に奴隷に落とされる農民が続出しており、社会問題化していました。ソロンはこの問題を解決するとともに、持っている財産の量に応じて政治への参加資格を定めました(財産政治)。これにより豊かな平民に政治参加の門戸が開かれるようになります。
BC560年には、平民に人気のあったペイシストラトスがアルコンに就任。本来任期1年の所を彼は20年近くその地位にありました。僭主政治、言い換えれば独裁政治が続いていたワケですが、ペイシストラトスは優秀な人物だったため、かえってアテネの政治は安定しました。しかし後を継いだヒッピアスは、イメージ通りの独裁を敷こうとしたため追放されます。
続いて政権を握ったクレイステネスも改革を実施。10の地区から代表50人を議員とする、500人議会を設置し、更にアテネにとって脅威とみなされた人物を追放する、オストラシズムを導入しました。一連の流れの中、アテネは民主制への歩みを進めていきます。
西アジア・エジプト
アッシリア滅亡後、西アジアではアッシリアのライバルだったバビロンを中心とした王国、新バビロニア王国がネブカドネザル2世の元で最大勢力となります。
パレスティナでは、アッシリアの征服を免れたエルサレムのユダ王国が、新バビロニア王国の圧迫を受けていました。ユダの人々(ユダヤ人の先祖)はこの大国から逃れようと反乱を起こすも失敗。BC586年ネブカドネザル2世の軍によりユダ王国は滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れ去られました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。しかしユダヤ人は、故郷から遠く離れた地でも結束して、自分達のアイデンティティを保ち続けたと言われています。
現在のトルコに当たる地域には、リュディア王国が成立。この国は史上初めて金属のコインを用いた国として、歴史に名を遺しています。現イランを中心とした地域にはメディア王国があり、リュディア王国と覇権争いを繰り返しました。
ペルシャ(イラン)
このメディア王国支配の元、現イラン南部で小さな王国(アケメネス朝)を経営していたのがペルシャ人でした。BC559年ペルシャ国王となったキュロス2世は、主人のメディア王国をBC550年に滅ぼしたのを皮切りに、リュディア王国(BC546年)、新バビロニア王国(BC538年)を次々と征服。一気にペルシャ王国を西アジアの大帝国に成長させました。続くカンビュセス2世下のBC525年にはエジプトも征服し、彼はファラオを兼任します。
BC522年即位したダレイオス1世の元で、アケメネス朝ペルシャ帝国の政治制度も整っていきます。中央からはサトラップと呼ばれる官僚を地方に派遣し、統治に当たらせました。そしてサトラップが現地で力を付け反抗しないように、王の目、王の耳と呼ばれる役職の人が時々監視にやって来ました。広大な帝国には、幹線道路「王の道」をはじめとする多くの道路が整備され、下図のような駅伝制が敷かれたと言います。
また、帝国は支配地から税金を取ったり、軍役を課したりしましたが、それ以外(現地の文化や宗教)には手をつけませんでした。このユルイ支配のためか、ペルシャはアッシリアと比べ遥かに長く続くことになります。キュロス2世の時代にユダヤ人もバビロンから解放され、多くがエルサレムに戻っています。
ギリシャVSペルシャ
アケメネス朝ペルシャ帝国はその後も拡大を続け、イオニア地方(現在のトルコ西岸)にあったポリスも征服してしまいます。また、ダレイオス1世の元には追放されたヒッピアスが逃れ、再起を図っていました。
BC500年イオニア地方でペルシャに対する反乱が起こり、アテネが反乱を支援すると、怒ったダレイオス1世はギリシャへの侵攻を開始します。ペルシャ戦争です。普段競い合っていたアテネ、スパルタなどギリシャのポリスたちは、共通の敵を前に一致団結して戦いました。BC490年のマラトンの戦いでペルシャ軍を破りました。この時の勝利を本国へ伝えた伝令が走った距離が約40kmで、これがマラソンの起源となりました。
ダレイオス1世を継いだクセルクセス1世はBC481年再度ギリシャへ侵攻。翌年、これを迎え撃ったのがレオニダス王率いるスパルタ軍でした(テルモピュライの戦い)。300vs20万という圧倒的な兵力差に、さしものスパルタ軍も全滅してしまいますが、ペルシャ軍の屁力を削り、時間を稼ぎます。アテネ軍は同年サラミスの海戦でペルシャ軍を撃退。BC480年プラタイアの戦いにも勝利しました。
この戦いでおおむね勝敗は決し、その後も小規模なギリシャ侵攻はあったものの、BC449年カリアスの和約が両者の間に結ばれ、ペルシャ戦争は正式に終わります。
ギリシャ後半
ペルシャ戦争では、一般市民も船のこぎ手などを務めて活躍したため、その存在感を増していきます。この頃アテネ政界のトップにいたペリクレスは、BC462年に政治の権限を貴族の議会から、平民中心の500人議会に移しました。アテネの民主政治がここに完成します。
アテネはペルシャ戦争中のBC478年に周囲のポリスと同盟を結びました(デロス同盟)。その後同盟相手からの富を得る(奪う)ようになり、それをもってギリシャ世界最大のポリスとなっていきます。ギリシャを代表する建造物パルテノン神殿が建てられ、歴史の父ヘロドトスや詩人ソフォクレス、大哲学者ソクラテスらが活躍したのもBC5世紀後半の事でした。
しかし、アテネが極端に強大化したことは、スパルタをはじめとする他のポリスにとって脅威でした。高まる緊張の糸が切れたBC431、年アテネとスパルタとの間でペロポネソス戦争が始まります。この間アテネに疫病が流行りペリクレスの他多数の病死者が出ました。更にスパルタがペルシャ帝国の支援を受けた事もあり、BC404年戦争はアテネの敗北に終わります。しかもこの後の政治家は民衆の人気取りを叫ぶばかりの(どっかの国のような)連中ばかりとなり、民主政の機能は低下してきました。
BC4世紀になっても各ポリスは小競り合いを繰り返していました。BC386年には大王の和約と称される平和条約が結ばれますが、戦争を仲裁したのは皮肉なことにアケメネス朝ペルシャ帝国でした。ペルシャはこうして間接的にギリシャ世界に影響を与え続けます。
バルカン半島(マケドニア王国)
ギリシャ世界がゆっくりと衰退していく一方、その北側(バルカン半島)にあったマケドニア王国が成長してきます。マケドニア王国はBC7世紀頃までにはすでに成立していたとされますが、ギリシャ人からは遅れたバルバロイ(異国人)として扱われていました。
しかしBC338年、時の王フィリッポス2世はギリシャへ侵攻すると、ポリスの連合軍はこれに敗北。翌年にマケドニアと複数のポリスとの間にコリント同盟が結ばれ、ギリシャはこの王国に支配されました。
BC336年フィリッポス2世を継いだのが、大王と称されるアレクサンドロス3世です。大哲学者アリストテレスを教師に持ったこの若き王は、その知力、体力を存分に生かさんと、東方遠征を開始。ターゲットは大帝国アケメネス朝ペルシャでした。
奇しくもアレクサンドロス3世と同じ年に即位したペルシャ王ダレイオス3世は、BC333年イッソスの戦いでマケドニア軍に敗北。BC330年に彼は暗殺され、アケメネス朝は滅亡しました。
この間アレクサンドロス大王は、アナトリアやシリア征服。BC332年にはエジプトを征服して、新しい都市アレキサンドリアを築きます。ペルシャを滅ぼした後も東へ軍を進め、ついにはインダス川にまで到達しました。しかし部下がこれ以上の進軍を嫌がったため、彼はメソポタミアの都市バビロンにまで引き返します。そこで新しい国造りを始めようとしましたが、BC323年熱病を発し、死去。まだ彼は30代でした。
ギリシャ、エジプトからイラン、インド西部にまで至る大帝国は、間もなく王の部下達による取り合い合戦(ディアドコイ戦争)に。この争いはBC301年イプソスの戦いで決着がつき、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアという3つの王国が成立しました。
アレクサンドロス大王の遠征には多くのギリシャ人が参加していました。彼らの一部はその後も西アジアやエジプトに住み着いたため、この地にギリシャの文化や哲学が伝わりました。ヘレニズム時代とよばれる、東洋と西洋の文化融合の時代がこうして始まります。
イタリア(ローマ)
後に地中海一帯を支配するローマは、この頃まだイタリア半島にある都市国家のひとつでした。BC6世紀頃にはまだ国王がおり、市民の多くはラテン人でしたが、王はエトルリア人でした。BC509年この王は貴族によって追放され、ローマは共和制の国となります。しかし今度は政治を牛耳る貴族と平民の争いが生じました。
BC494年、平民が大規模なストライキを起こす(聖山事件)と、貴族は護民官と呼ばれる平民の保護者を設置する事を認めます。BC450年頃にはローマ最初の本格的な法律、十二表法が制定され、貴族と平民の権限もそれぞれ明確化されました。
しかし平民の、権利拡大を求める声はやまず、BC367年リキニウス・セウクスティウス法が定められます。ローマでは独裁を防ぐため、そのトップ(コンスル)は常に2人いたのですが、この法により、コンスルは貴族2人の体制から、貴族、平民1人ずつの体制へと転換されました。
この頃ヨーロッパ全土にケルト人が拡大し、イタリアにも進出してきました。ローマはこの異民族に対抗すべく周囲の都市国家と同盟を組むようになります。そして各地を行き来するための道路網も張り巡らされました。アッピア街道です。
一方、イタリア南部にはギリシャ人が多数移住し、同じような都市国家(植民都市)を築いていました。そのためこの地域はマグナ・グレキア(大ギリシャ)と呼ばれ、拡大するローマと覇を争うようになります。
西ヨーロッパ~中部ヨーロッパ
ヨーロッパの中央部には、先住民ケルト人が住んでいました。現在のオーストリアを中心に、すでにハルシュタット文化と呼ばれる鉄器文化を持っていた彼らですが、このBC6~4世紀にはヨーロッパのより広範囲に拡大していきます。
ヨーロッパ大陸では、BC5世紀頃から現在の国でいうところのスイス、フランス、ベルギー、オランダなどへ拡大。植物の文様を用いた様々な美術品を生み出しました。ラ・テーヌ文化と呼ばれています。
ケルト人は海も渡りました。BC6世紀以降、現在のイギリスやアイルランドに上陸し、そこの主要民族となっていきます。現在用いられているスコットランド語やウェールズ語、アイルランド語などにはケルト語の影響が多く残っています。
ケルト社会では(場所によってですが)、ドルイドと呼ばれる宗教のトップが政治のトップを兼ねていたと考えられています。各地の部族は、この時代に前後して、ギリシャ人やローマ人から、ブリトン人、ゲール人、ガリア人、ベルガエ族、ヘルウェティイ族など様々な名前で呼ばれました。そしてブリトン人はブリテン島の語源に、ベルガエ族はベルギーの国名の由来となるなど、現在に至るまでその痕跡は残っています。ただし、ケルト人は文字を持たなかったため、未だに分からない事が多いのも事実です。
南アジア
バラモンをトップとする身分制社会を作り上げたインドでしたが、政治的には分裂状態が続いていました。ガンジス川の流域には16もの王国があり、互いに抗争していました。武器を取って戦っていたのはバラモン(僧侶)ではなく、その1つ下のクシャトリヤ(貴族)身分の人々で、彼らの地位が向上していきます。
そんな中ブッダ(ガウタマ・シッダールタ)によって開かれた仏教がクシャトリヤの間で広まりました。仏教は平等を説き、カースト制度やバラモンの優位を否定したためです。
16の国の争いを勝ち残ったのは、インド東部パータリプトラを都に置くマガダ王国でした。マガダではいくつかの王朝が興亡しましたが、アレクサンドロス大王がインドから撤退した直後のBC317年、チャンドラグプタ王によって開かれたマウリヤ王朝は、後にインドのほぼ全域を支配下に置く、最初の大帝国となっていきます。
北インドの王国が、主にアーリヤ人によって築かれたのに対し、南インドではドラヴィダ人という別系統の社会が築かれました。詳しいことは不明ながら、BC5世紀には巨大な岩を用いた独自の文化を持っていたと考えられています。更にその南、現在のスリランカやモルディブにも人類は進出。BC4世紀頃にはスリランカの古都アヌラーダプラに最初の王国が建設されたとされます。
中国・東南アジア
BC6~4世紀の中国は、春秋戦国時代のさなかにありました。前の時代に中国のトップを誇っていた周王朝の力はすでになく、各地に大小の国が出現して、覇権を競いました。呉と越はともに中国沿岸部、長江の南にあった国で、「呉越同舟」の四字熟語で知られるようにライバル関係にありました。最終的には越がBC473年に呉を滅ぼしましたが、この時のエピソードは、「臥薪嘗胆」という故事成語を生みました。
より強大な国としては、中国北東部の燕、東部の斉、北部の晋、南部の楚、西部の秦などがありました。この中でも、例えば楚の君主は、周の王を半ば無視するように自ら「王」を名乗ったのに対し、斉の君主は「公」を名乗って、一応は周の臣下という立場を貫くなど、その戦略も様々でした。
そんな中、晋がBC453年3つに分裂。この時成立した韓、魏、趙という国に加え、前述の燕・斉・楚・秦という計7カ国が、中国統一レースの最終選手となります(前述の越は、BC4世紀楚によって滅ぼされました)。現在ではこれらを「戦国の七雄」と呼び、BC453年以前を春秋時代、以後を戦国時代と呼んでいます。
この春秋戦国時代、庶民レベルで見れば、必ずしも戦乱ばかりの世ではありませんでした。鉄製の農具や、牛を使った耕作が農業生産を大きく伸ばし、それらを食べるだけでなく、売りに出す人々も出現。中国でも商業が一層盛んになり、貨幣も用いられるようになります。
一方で、変化を繰り返す社会の中、人として正しく生きる道を模索する人々も出てきました。代表的な人物が、仁を重んじる孔子(BC6~5世紀)や、自然体でいることを貴んだ老子(BC6世紀?)、法の支配を重んじる商鞅(BC4世紀)などでした。この時代様々な思想家が中国各地に次々と出現したことから、彼らを総称して諸子百家と呼びます。この中で商鞅を中心とする人々(法家)を受け入れた秦が徐々に力を付け、他の6カ国を脅かすようになります。
ベトナムにもBC5世紀頃、銅を用いた金属文化が興りました。北部のドンソン文化、南部のサーフィン文化です。特にドンソン文化は、銅でできた太鼓状の物体「銅鼓」の存在で広く知られています。ドンソン文化はやがて、東南アジア一帯に似たような金属文化を伝えました。
アフリカ
現スーダンのナイル川流域には、クシュ王国と呼ばれるヌビア人の国があり、かつてはエジプトをも一時征服したことがありました。しかしBC6世紀には逆にエジプトの侵攻を受け、王都をより南(ナイル川上流)のメロエにうつします。以後この王国は一般にメロエ王国とも呼ばれます。BC5世紀、このメロエで鉄の生産が本格化し、発展。遠くペルシャ帝国などとも交易が行われるようになりました。
興味深いことに、メロエから遠く離れた西アフリカでも、同じくBC5世紀頃から鉄生産が始まっています。現ナイジェリアに出現したノク文化は独特の人型の像を多数作った、この時代の西アフリカ文化における代表選手ですが、ここでも鉄を作るのに用いた溶鉱炉が見つかっています。
ノク文化の栄えたナイジェリアより北にはサハラ砂漠が広がり、そのまた北には地中海貿易で大国となってカルタゴがありました。この時代には既にサハラ砂漠を縦断してカルタゴと西アフリカを結ぶルートも形成されていたようです。ただ西アフリカの製鉄技術がこのルートを通じてアジアから伝わったものなのか、アフリカ人によって独自に見つけられたのかについては、まだ結論が出ていません。
そのカルタゴはこの時期、地中海貿易で富を成し、この内海の西半分以上を制する大国となっていました。現在のリビアからモロッコの沿岸部、スペイン沿岸部、イタリアのサルディーニャ島などは彼らのテリトリーでした。
アメリカ大陸
現在のメキシコ中央部では、既にBC1200年頃からオルメカ文明が成立していました。BC6世紀頃にはこの文明に影響されたサポテカ文化が生まれます。その中心はメキシコシティより350kmほど南にあるモンテ・アルバンで、独自の文字を使っていたことが分かっています。
ユカタン半島では、BC4世紀頃から文字の使用や集落の形成が見られるようになります。この文化が後にマヤ文明へと発展していったと考えられています。現グアテマラ東部に位置するエル・ミラドールは、BC400年頃に成立した、中米最古の都市の一つです。
新しい哲学・思想
このBC6世紀~4世紀には、その後の人類の知的レベルをグンと上げるような思想が各地に生まれました。
古代ギリシャでは、タレス(BC6世紀)に始まる自然科学の追求が活発に行われます。いわゆる「万物の根源は何か?」という疑問に、タレスは「水」、ピタゴラスは「数」、デモクリトスは「原子」といった答えを出して、それを「理論立てて」説明しようとしました。
そこには「この世のすべては神が作った!」というような単純な考えはありません。もちろんギリシャ人はギリシャの神々を信仰していましたが、それとは別に「この世は何か」或いは「人間とはなんぞや」という事を徹底的に追い求めたのでした。(もっとも、この時期ギリシャ人は労働を奴隷に押し付けていたので、このような思索をする余裕があったのかも)。
BC4世紀以降はソクラテス、プラトン、アリストテレスといった優れた哲学者も出現し、盛んに論争も行われました。また、人間の「生」に焦点が置かれ、優れた物語や、躍動感溢れる石像が多数建設されたのでした。
ギリシャだけではありません。インドでは前述のようにBC6~5世紀頃、ブッダ(ガウタマ・シッダールタ)が仏教を開いています。同時期には一切の殺生を禁ずるジャイナ教がヴァルダマーナによって生み出されました。こうした新しい宗教の背景には、宇宙と個々人の関係を考える古代インドの思想「ウパニシャッド哲学」がありました。ウパニシャッド哲学は更に古代インドの抒情詩ヴェーダとも関連があります。
カースト制度が生まれたことにより、社会が変容し、豊かな者と苦しい者の格差が生じるなど多くの矛盾もまた生まれました。ブッダやヴァルダマーナは、こうした現状の中、いかに人々が生きるべきかを追求し、仏教やジャイナ教という形でその答えを世に出したのです。
そして中国でもBC6世紀以降、諸子百家によって、様々な思想が生み出されました。これも、中国各地における新たな国の出現と滅亡、あるいは商業の発展や人々の盛んな往来による社会の変化が、孔子、老子、墨子、商鞅といった人々を登場させたのでしょう。
いずれにせよ、世界各地で社会に変化が生じ、人々がどのような道を歩めばいいのか、という問いが真剣に考えられるようになったと言えます。現代にも通じる思想や哲学は、このような苦悩の中で生まれたとも言えますし、より踏み込んで考えれば、生きるので手一杯だった時代が終わり、そのような苦悩をする余裕が生まれた、とも言えそうです。
主な出来事
BC594 ソロン、アルコンに選出(ギリシャ)
BC586 ユダ王国滅亡(イスラエル)
BC560頃 ペイシストラトス 僭主政治開始(ギリシャ)
BC559 キュロス2世即位(イラン)
BC550 メディア王国滅亡(西アジア)
BC546 リディア王国滅亡(西アジア)
BC540頃 カルタゴ、イベリア半島沿岸支配(北アフリカ)
BC538 新バビロニア滅亡 ユダヤ人解放(西アジア)
BC525 ペルシャ、エジプトを征服
BC515 エルサレムに第二神殿建立(イスラエル)
BC509 ローマ王政廃止(イタリア)
BC508 クレイステネスの改革(ギリシャ)
BC6世紀 アイルランド、ガリアにケルト人拡大(ヨーロッパ)
ギリシャ人、南フランス進出
メロエ王国成立(スーダン)
BC6世紀~5世紀 トラキア人の統一王朝成立(バルカン半島)
ブッダ、仏教開く(インド)
ヴァルダマーナ、ジャイナ教開く(インド)
孔子、儒学説く(中国)
BC500頃 サポテカ文明成立(メキシコ)
ケルト人、北欧に鉄器伝える
アフリカ南部にまで農耕伝わる
BC499 ペルシャ戦争開始(ギリシャ)
BC494 聖山事件(イタリア)
BC490 マラトンの戦い(ギリシャ)
BC480 テルモピュライの戦い(ギリシャ)
BC480 サラミスの海戦(ギリシャ)
BC479 プラタイアの戦い(ギリシャ)
BC478 デロス同盟(ギリシャ)
BC477 第1回仏典結集(インド)
BC473 越の勾践、呉滅ぼす(中国)
BC462 ペリクレス、500人議会に権限移行(ギリシャ)
BC451頃 十二表法(イタリア)
BC453 晋分裂(中国)
BC449 カリアスの和約(ギリシャ)
BC431 ペロポネソス戦争開始~404(ギリシャ)
BC404 エジプト第28王朝、ペルシャから一時自立
BC5世紀 ラ・テーヌ文化成立(中部ヨーロッパ)
イリュリア人、アドリア海に進出(バルカン半島)
メロエ王国で製鉄業開始(スーダン)
西アフリカで製鉄開始
ヘロドトス『歴史』著す(ギリシャ)
マガタ王国拡大、コーサラ王国併合(インド)
BC400頃 エルミラドールなどの都市発達(メキシコ)
BC395 コリントス戦争(ギリシャ)
BC386 大王の和約(ギリシャ)
BC367 リキニウス・セクスティウス法(イタリア)
BC359 フィリッポス2世即位(バルカン半島)
BC338 カイロネイアの戦い(バルカン半島/ギリシャ)
BC337 コリント同盟(ギリシャ)
BC336 アレクサンドロス大王即位 ダレイオス3世即位(バルカン半島/イラン)
BC334 東方遠征開始(バルカン半島)
BC333 イッソスの戦い(イラン)
BC332 アレキサンドリア建設開始(エジプト)
BC331 アルベラの戦い(イラン)
BC330 アケメネス朝ペルシャ帝国滅亡(イラン)
BC323 アレクサンドロス大王没(西アジア)
BC317 マウリヤ朝成立(インド)
BC312 ガザの戦い セレウコス1世即位(西アジア)
アッピア街道建設開始(イタリア)
BC301 イプソスの戦い(西アジア)
BC4世紀 マヤ文明の萌芽(メキシコ)
イギリスにケルト人進出
アガソクレス、シラクサを強大化(イタリア)
スキタイに代わり、サルマタイ隆盛(中央アジア)
アヌラーダプラに王国成立(スリランカ)
ドンソン文化、サーフィン文化興る(ベトナム)
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