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世界史に(あまり)出てこない国の歩み~琉球王国の歴史~

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首里城
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 私が初めて日本史を習った小学生(1990年代)、沖縄について触れられていたのは、明治時代に琉球王国が廃止されて「琉球藩」となったこと、太平洋戦争で大きな犠牲を強いられたこと、その後1972年までアメリカの占領下にあったことくらいでした。最近の日本史教科書には、琉球王国についてもある程度紹介されているようですが、日本本土の歴史がどうしても優先されてしまう以上、詳しく触れられないのが実情です。今回琉球・沖縄の歴史についてリクエストを戴きまして、私も一から学んでみました。

沖縄

国ができるまで

 沖縄に人類が到達したのは約3万年~2万年前と考えられています。彼らは港川人と呼ばれ、縄文人の祖先という説もあります。約6千年前になると、貝塚人と呼ばれる人々が出現します。名前の通り彼らは貝塚を築いており、貝や魚を獲って生活していました。また、九州のものと共通点の多い土器を使っていたようですが、一方で土偶などは見つかっておらず、早くも本土との文化的な違いが見られるようになります。なお港川人との関係性については、その時間的な開き(1万年以上!)から不明な点が多く、港川人が貝塚人の祖先なのかはわかっていません。

古代沖縄

 本土が弥生時代を迎える約2300年前になると、貝塚人は弥生人に、おそらくは装飾品としてイモガイ(貝の一種)などを輸出するようになりました。交易が始まります。交易は同じ頃、中国とも行われるようになり、沖縄本島の西に浮かぶ久米島からは、漢王朝の貨幣も出土しています。内陸では小規模ながら農業もこの頃始まっていたようです。

 

 6世紀に日本を統一したヤマト政権にも沖縄に住む人々の存在は知られていました。彼らは朝廷に美しいヤコウガイ螺鈿らでん(貝を加工した装飾品)を献上しており、代わりに沖縄へは鉄器がもたらされました。鉄鉱石が無い沖縄で、鉄器が使われ始めるのはこの頃からです。

同じ頃、中国()の書物に初めて琉求という単語が登場します。ただしこの時代の「琉求(琉球)」は、なんとなく南の方にあるっぽい島々を指したものだったようで、沖縄本島から先島諸島、更に台湾までが、漠然とこの名前で呼ばれていました。一方、「沖縄」という呼び名は、鎌倉時代の頃から日本の書物に姿を現します。

グスクから王国へ

 日本本土や中国との交易はその後も盛んに続き、次第に琉球社会も発展していきました。それと共に人口も増え、集落も大規模化していきました。11世紀(本土では平安時代)を過ぎた頃からは、複数の集落をまとめる権力者が登場します。こうした権力者は、交易での富に加えて民からも税を集め、その財力で城や要塞、神殿のような大きな建物を建て始めました。こうした建物はグスクと呼ばれ、この時代も「グスク時代」と称されます。

今帰仁城1

 

グスクの一種、沖縄北部の今帰仁なきじん城址。石垣の跡が今も残ります。今帰仁城2 

 12~13世紀になると、沖縄本島では3つの大きな勢力にまとまっていきました。それが現在の沖縄北部、今帰仁なきじん村を拠点とした北山王国、糸満市付近を拠点とした南山王国、そして浦添市などを拠点とした中山王国で、おのおのが大規模なグスクを建てていました。このうち、中山王国の初代国王舜天しゅんてんは、伝説によれば保元の乱に敗れた源氏の血を引く者だったとのことです。

3王国

 3つの国は14世紀後半に中国(当時は)と朝貢関係(あなたの臣下になりますよという関係)を結び、その属国となります。琉球から明の皇帝への貢ぎ物として、夜光貝や硫黄などを送り、明の皇帝から琉球へは返礼品として、鉄や陶磁器がもたらされました。この事実上の貿易(朝貢貿易)によって琉球の国王たちは巨万の富を得ます。というのも、大国である明は見栄を張るため「ウチは大国で豊かだからな。大量の物品を気前よく与えてやろう」と、貢ぎ物をはるかに超える量の返礼品をくれるので、琉球側としてはウハウハだったわけです。

朝貢貿易

琉球王国の統一と繁栄

 15世紀初頭、中山王国ではしょうによる政権が建てられます。その立役者である尚巴志しょうはしは、1416年に北山王国を攻め滅ぼしました。その後1422年に中山王に即位。1429年には南山王国も滅ぼし、琉球の統一を成し遂げました(統一の過程や年代には諸説あり)。尚巴志王によって統一琉球王国の王都と定められたのが首里で、後に首里城も建てられました。首里にほど近い場所にあった港町もまた、王国発展のために整備されました。この港町が那覇です。

三国統一

 

16世紀半ば、王位は別の尚氏に取って代わられます。中山王国の時代から王族は頻繁に交代していましたが、この第二尚氏政権は19世紀まで続きました。その3代目国王、1477年に即位した尚真しょうしんの時代、琉球王国は最盛期を迎えます。彼は王国の官僚制を整え、そのトップに王が君臨することで権力を集中させました。首里や那覇の街も整備され、大規模な道路も建設されました。

 

また彼の時代、琉球王国の範囲は沖縄本島周辺のみならず、石垣島や宮古島など、先島(八重山)諸島にまで拡大しました。先島諸島では港川人や貝塚人とも異なる人々が、日本本土とはもちろん、沖縄本島とも異なる独自の文化を築いていました。しかしこの頃には琉球の盛んな貿易により、その経済圏に組み込まれ、1500年頃には政治的にも琉球の支配下となりました。

 

尚真王時代

明との朝貢貿易も他の国以上に熱が入っており、その頻度は2年に1度という当時としてはめっちゃハイペースなものでした。ほかにも、シャム王国(現タイ)やマラッカ王国(現マレーシア)などにも船を向かわせ、東南アジア産の香辛料を中国へ、中国の陶磁器や絹を東南アジアへ運びました。いわゆる中継貿易により、琉球の経済は大いに潤います。

 

もちろん、日本との貿易も盛んに行われました。当初は室町幕府を相手としていましたが、1467年の応仁の乱で幕府が力を失うと、堺の商人や、薩摩(鹿児島)の島津氏との付き合いが深くなっていきます。

失われた独立

 16世紀になるとヨーロッパで大航海時代が本格化し、日本人、中国人の商人も盛んに貿易に参加する「交易の時代」を迎えます。これで琉球王国による交易もますます盛んに!と思いきや、この頃から琉球の中継貿易は振るわなくなっていきます。

 

 というのも、日本の商人たちが琉球経由ではなく、直接貿易に乗り出したことで、琉球は競争に勝てなくなっていったのです。琉球は中国(明)との関係を深めることで生き残りを図ります。そのため1590年代に豊臣秀吉がアジア征服のために朝鮮出兵を開始しても、琉球側は直接的な協力しませんでした。

 

 17世紀に江戸幕府が成立すると、徳川家康は豊臣時代に悪化した明との関係改善をしたいと思い、仲介役に琉球を頼みます。しかし琉球側はこれを拒否しました。また、薩摩の島津氏は朝鮮出兵でお金を使い過ぎたため、財政難に苦しんでいました。幕府の力を知らしめたい徳川と、財政再建を望む島津の利害が一致した結果、1609年、島津軍は徳川容認のもと琉球王国に侵攻し、不意を突かれた当時の琉球国王尚寧しょうねいは降伏。以後、琉球王国は明治まで薩摩藩の支配下に置かれることになります。

琉球侵攻

徳川と薩摩のもとで

 薩摩藩は琉球の王子など有力者を人質として鹿児島に一時据え置き、逆に琉球や先島諸島へは薩摩の役人を派遣して監視に当たらせました。また奄美大島とその周辺は薩摩藩の領地となりました。ここは現在も鹿児島県です。

 

 幕府に対しては、徳川の将軍、あるいは琉球の国王が交代する度に、琉球の使節団が江戸まで派遣されるようになります。江戸上りと呼ばれたこの使節は、一般人が琉球の文化や風習を見聞きできる貴重な機会となりました。しかし琉球側にしてみれば、その距離の長さゆえに交通費や滞在費が重い負担となりました。一方、中国との関係はその後も続き、明から清に王朝が交代した一時期を除き、朝貢貿易も行われました。

羽地朝秀の商品作物

 17世紀後半、停滞する琉球社会に対し、羽地朝秀はねじちょうしゅうによる財政改革が行われます。彼は日本や中国への新たな輸出品として、サトウキビとウコンの生産を増やします。農民に対しては、過酷だった税負担を緩和する一方で、開墾をすすめて増産を図りました。一方で農民と大名(琉球では、士族と呼ばれました)の身分を明確にし、農民の税逃れを防止しました。18世紀には、これまた有能な政治家だった蔡温さいおんが羽地朝秀の政策を受け継ぎ、産業や土木工事などの分野で業績を残しました。彼はまた、身分制度をはっきりさせるべく、儒教を重んじました。

 

一連の改革で琉球社会は息を吹き返し、また江戸上りを通じて日本文化も入ってきたことから、新たな文化も生まれます。沖縄を代表するお酒の泡盛や、宮廷で踊られた琉球舞踊などは、17~18世紀に現在の形になったと考えられています。

近代化の波

 しかし18世紀も後半になると、疫病や災害が頻発し、農村は再び荒廃していきました。加えて19世紀に入ると、イギリスやフランスの艦隊が琉球にも上陸し、開国を要求するようになります。あのペリーも、浦賀に来る前に首里城にも立ち寄っており、琉球国王に開国を要求していました。とはいえ江戸幕府が鎖国をしている以上、琉球が勝手に開国することはできず、欧米の要求をノラリクラリとかわす作戦に出ます(かくれんぼ外交)。しかし1854年幕府が開国に応じると、同年琉球も琉米修好条約を結んで、開国に踏み切りました。

 

 その後日本本土では江戸幕府が倒れ、1868年から明治政府のもと近代化が始まります。その中で日本の領土、つまり国の範囲を明確にする必要が生じてきました。明治政府は、琉球が日本の領土であることを示すために、王国にも日本と同じ元号を使うように、などの圧力をかけます。これに対し琉球側は、日本の一部ではない、自分達はあくまで独立した国であるとの立場を示し、との朝貢貿易も続けました。つまり、日本と中国の両方につき従うことで、どちらにも完全には組み込まれないようにしていたのです。

琉球の黄昏

 明治政府は琉球王国を段階的に切り崩す戦法を採ります。1872年「琉球王国」は「琉球藩」と名称を変更され、当時の国王尚泰しょうたいも「藩王」として扱われました。政府は琉球側にこの要求をのませ、その見返りに奄美大島の返還、鹿児島による重税の軽減を約束します。ところがこの約束は結局果たされませんでした

 

 更に琉球を日本に組み込むためには、琉球と清との関係を断ち切らなければならないとして、政府は尚泰王に朝貢貿易を止めるよう求めました。尚泰はこれを拒否すると共に、清に助けを求めようとします。これに対し政府は1879年に警察隊を派遣し、沖縄県の設置を宣言。尚泰王は首里城を追い出され、ここに琉球王国(琉球藩)は消滅することになります(琉球処分)。

琉球処分

 明治政府の強引なやり方に、琉球の民は激しく反発しました。中国の清も琉球の廃止は認めず、一時は沖縄本島周辺を日本領、先島諸島を中国領とする妥協案も出されました。しかし1895年日清戦争で中国側が敗れたこともあり、沖縄(琉球)が日本領であるとこが確定します。

日清対立

1889年日本で最初の憲法が制定されますが、近代化が進んでいないことを理由に沖縄では当初選挙なども行われず、県知事も本土出身者ばかりでした。これに対し、沖縄出身の謝花 昇じゃはな のぼるは、沖縄倶楽部という政治団体を結成し、現状を訴えました。この結果1900年にようやく制限付きながら参政権を手にします。

 

 本土からの沖縄移住者も増え、地元民も少しずつですが近代化政策を受け入れていきました。一方で、沖縄の人々に対する差別、偏見は根強いものがありました。1903年大阪で開かれた博覧会では、「人類館」というパビリオンに「朝鮮人、台湾人、アイヌ人、琉球人」らが“展示”されていた事実があります。また沖縄の文化や言葉は依然として「遅れたもの」とされ、例えば学校で沖縄の方言を使った生徒に「方言札」なるものをぶら下げる罰が下されました。

方言札

沖縄県になってから

 20世紀に入っても、沖縄の苦難は続きました。1920年代には、ソテツ地獄と呼ばれる飢饉が発生し、多数の餓死者が出ます。これをきっかけに、サトウキビのモノカルチャー経済が見直されるようになります。

 

 1930年代には軍国主義の台頭から、沖縄県民の「皇民化」、つまり日本本土人との同化政策が強力に進められ、自身のアイデンティティを傷つけられました。太平洋戦争末の1945年にはアメリカ軍が上陸。激しい戦闘や集団自決の強制により、沖縄県だけで20万人以上の人命が失われました。これは東京都や広島県での犠牲者数を超えるものです。

ひめゆり

                 ↑ひめゆりの塔

 戦後から1972年まではリカの占領下に置かれ、ベトナム戦争へ向かう戦闘機も多数ここから飛び立っていきました。米軍基地の問題は、返還から半世紀が経った現在も尾を引いています。

 日本への併合以降、沖縄の近代化は進みましたが、一方で琉球王国時代の伝統文化を見直す運動も続けられました。古くは20世紀初頭に「沖縄学」の研究を開始し、民俗学者の柳田国男らとも交流した伊波普楢いはふゆうがいます。伊波やその後継者による沖縄文化の研究、調査の結果、2000年には首里城をはじめとする県内の遺跡(グスク)が、世界文化遺産に登録されます。沖縄の伝統文化が世界的に認められたことを象徴する出来事でした。

首里城

                 ↑首里城(焼失の1年前、2018年撮影)

 残念なことに2019年、その首里城が火災で焼失。再建には多くの課題があるとのことですが、逆に言えばそれだけ首里城の建築技術が独特で貴重な存在だったということになります(もっとも燃えた正殿は20世紀に再建されたもので、世界遺産の範囲外だそうですが…)。日本、中国、アメリカといった大国に翻弄されつつも、柔軟に、したたかに命脈を保ってきた歴史。ここに沖縄・琉球の“強さ”を見ることができるのではないでしょうか。

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