神聖ローマ帝国とは何だったのか!?(その2)
前回の続き
金印勅書により、皇帝の選び方と、それを選ぶ諸侯の権利が大きく認められたことで、帝国内の内乱はいったん落ち着きます。しかし・・・
カトリックの保護者として
皇帝の座を巡る争いが落ち着いた14世紀、皇帝のライバルだったローマ教皇の地位は十字軍の失敗やフランス王との対立ですっかり落ち込んでいました。教皇庁(教皇の居場所)は1309年からローマからフランスのアヴィニョンに遷され、1377年にローマに戻ったと思ったら、翌年にはローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇が並び立つ、大シスマ(教会大分裂)と呼ばれる事態に。(日本でいう、南北朝時代のような状態)。
この中で教会は金儲けに励むようになり、贖宥状(これを買えば罪を許されるよ、というお札)を売りに出すことも当たり前に行われていました。ボヘミア王国出身の神学者、ヤン・フスはこうした腐敗を痛烈に批判しています。
時のドイツ王ジギスムント(在位1410~37年 皇帝は33年から)は、1414年コンスタンツ公会議を開いて大シスマを解決に導きます。この時ヤン・フスも会議に招かれましたが、彼の言動がカトリック世界の安定を脅かすと判断したのでしょう、ジギスムントは1415年、彼を騙し討ちにして処刑してしまいます。しかしカトリックを批判する声は止むことはありませんでした。
1437年にジギスムントが没すると、ウィーンに拠点を置くハプスブルク家のアルブレヒトがドイツ王に即位。以後、ほとんどの皇帝がハプスブルク家出身者となります。続くフリードリヒ3世(在位1440~93年)とマクシミリアン1世(在位1493~1519年)は、皇帝としての使命を果たすこと以上にハプスブルク「一族」を繁栄させることに腐心しました。つまり、ネーデルラント(現オランダ、ベルギー)やスペインの王侯貴族と政略結婚を繰り返し、その領地や王位を手に入れることに成功したのです。
皇帝としての業績は、例えばマクシミリアン1世のもとで、帝国最高法院が設立。これは神聖ローマ帝国内のもめ事を解決する最高裁判所のようなもので、逆に言えばそのような機関を設けなければならないほど各領邦が力を付け始めていた証拠でした。1499年にはアルプス山脈周辺の領邦が同盟を結び、皇帝軍を撃破して事実上帝国から分離独立しています。これが後のスイスです。
宗教改革とカール5世
マクシミリアン1世を継いだのがカール5世です。彼は母方の祖父からスペインを、父方の祖父(マクシミリアン1世)からオーストリア大公及びドイツ王(皇帝)の地位を受け継ぎ、スペイン下にあったナポリやネーデルラントをも領有。つまりヨーロッパ中に領地を持ったトテツモナイ人物でした。しかし、多くの称号や領地を持つカール5世には、それに比例するように多くの「敵」を相手にしなければなりませんでした。
当時のスペインは、イタリア諸国への覇権をめぐってフランスと長い戦争(イタリア戦争)をしており、スペイン王を引き継いだカールもその争いに巻き込まれました。実際、時のフランス王フランソワ1世は皇帝に立候補し、その座をカールと争っています。東側からはオスマン帝国が北上。当時のスルタン、スレイマン1世はオスマン史上最強君主ともいわれ、1529年にはハプスブルク家の拠点ウィーンを包囲され、一時ピンチに陥りました。
更に神聖ローマ帝国内では、カトリックへの批判がさらに高まっていました。カールの皇帝就任2年前、ザクセン公国の神学者ルターが有名な95カ条の論題を発表し、大きな反響を呼びました。聖書を重んじ、キリスト教を個人の内面に収める彼の考えは、やがてプロテスタントと呼ばれる宗派へと形作られて行きました。
プロテスタントは主に帝国(ドイツ)北部の領邦に広まっていき、1530年にはこれらが同盟を組んで、カトリックの領邦と対決するようになります(シュマルカルデン戦争)。この当時、フランスやオスマン帝国との戦いにてんてこ舞いだった皇帝カール5世に、彼らを抑える余裕が無く・・・最終的には、1555年アウグスブルクの宗教和議でルター派のプロテスタント信仰が認められました。戦いに疲れ果てたカールは、翌56年に皇帝やスペイン王の地位を自ら退き、2人の息子に領地を分割。1559年に亡くなるまで修道院で暮らしたとのことです。
なおルターは、1541年に死去しますが、ザクセンの地で聖書のドイツ語訳を行いました(それまではラテン語)。この聖書はドイツ語圏全体に広まっていき、やがてドイツ語の「標準語」となっていきます。
三十年戦争
アウグスブルクの宗教和議で帝国内のルター派は認められましたが、プロテスタントには他にもツヴィングリ派、カルヴァン派など様々な宗派がありました。神聖ローマ帝国内にあったオランダでは主にカルヴァン派が広まりますが、この地を支配していたスペイン王フェリペ2世(ハプスブルク家)が彼らを弾圧。反発したオランダ貴族らにより国王廃位宣言が出され、17世紀初頭、オランダは事実上独立しました。
かつてヤン・フスが活動していたボヘミア王国(現チェコ。ここも神聖ローマ帝国を構成する国)では、17世紀になっても反カトリック的な土壌が残っていました。ところが1617年、次期神聖ローマ皇帝と目されていたハプスブルク家のフェルディナントが新ボヘミア国王に選ばれました。このフェルディナント王、コッテコテのカトリック教徒で、王国内のプロテスタント信者を弾圧。ボヘミア貴族はオランダと同じようにこの国王を廃位し、プロテスタント信者だったプファルツ選帝侯(帝国西部)と交代させようとします。こうして1618年宗派を巡る戦いが始まりますが、当初この戦いがまさか30年も続く大規模なものになるとは、誰も予想できなかったことでしょう。
ボヘミアでの戦いは、1620年フェルディナント(1619年皇帝に即位し、フェルディナント2世)側の勝利に終わり、プファルツも攻撃を受けます。これがプファルツに近く、伝統的に反ハプスブルク的なフランスを刺激。当時の仏宰相リシュリューは、プロテスタントを受け入れたデンマークやスウェーデンと同盟。この内デンマークが、帝国内での権利を巡って皇帝に宣戦布告しました(1625年)。
この時は帝国から有能な傭兵隊長ヴァレンシュタインが現れ、デンマークに勝利します(1629年)が、今度はスウェーデン軍が侵攻(1630年)。スウェーデンは国王グスタフ・アドルフを失いながらも(1632年)勝利を重ね、1634年ヴァレンシュタインが暗殺されたこともあって、スウェーデン優位な形でこの戦いは終わりました(1635年)。
皇帝フェルディナント2世は長い戦いを利用し、自身の権力を集中させようと画策したため、帝国諸侯の不満を呼びました。フランスも皇帝の権力拡大を恐れ、1635年ついに自ら参戦。しかし両者の決着がつかぬまま、フェルディナント2世もリシュリューも死去。1645年ようやく講和会議が始まり、1648年(つまり3年もかかった!)ウェストファリア条約が結ばれて終わりを告げました。1618年~48年という長きに渡ったため、三十年戦争と呼ばれています。
ウェストファリア条約で、神聖ローマ帝国内でのプロテスタントはすべて認められるようになりました。それと同時に、皇帝の権限は縮小され、逆に各領邦の政治的権利は更に引き上げられました。もはや帝国内では最高法院などわずかな機関を除き、これをまとめ上げる力を失いってしまいます。神聖ローマ帝国はもはや有名無実化し、宗教的にもバラバラな、300を超える領邦がドイツ内にひしめき合う状態となります。
大国出現
三十年戦争におけるドイツ(神聖ローマ帝国)の被害は悲惨なものでした。戦いには多くの傭兵が用いられていたのですが、彼らへの賃金払いが良くなかった場合、傭兵たちは近場の村や町を襲って収入の「タシ」にしていました。強盗、殺人があちこちで起こり、治安は極度に悪化。また17世紀のヨーロッパでは寒冷な年が多く、作物の不足や疫病も頻発していました。こうした様々な要因が重なり、ドイツ人口は30年前で20%~30%(600万人以上)も減少していたといいます。
戦後、帝国内の各領邦では各々復興が進められますが、その中で国の強大化に成功したもののありました。この2大巨頭となったのが、オーストリアとプロイセンです。
オーストリアは、皇帝の座を独占し続けたハプスブルク家の本拠地でした。この頃は皇帝と言っても自分の領地以外(例フランクフルトとかミュンヘンとか)に影響を及ぼすことは出来なくなっていました。しかしながら、オーストリア・ハプスブルク家はボヘミアやハンガリー、クロアチアといった広い地域を統治しており、これはこれで非常に強い力を持つようになります。
一方のプロイセン。ここは以前、ブランデンブルグ辺境伯領という選帝侯の領地で、治めていたのはホーエンツォレルン家、中心都市はベルリンでした。16世紀、この一族は現ポーランド沿岸部のプロイセン地域を手に入れ、以後プロイセン公国と名乗るようになります。三十年戦争中に即位したフリードリヒ・ヴィルヘルム公は、フランス王ルイ14世の絶対主義を参考にして、権力を集中。傭兵に頼らない強力な常備軍や、効率的な官僚制を導入しました。1701年、公国から王国に昇格してもこの政策は受け継がれ、プロイセンは軍事大国となっていきます。
18世紀半ばには、オーストリアに女帝マリア・テレジア、プロイセンにフリードリヒ大王という、いずれも開明的な思想を持った名君(啓蒙専制君主)が即位し、互いに争いながら(オーストリア継承戦争、七年戦争)も改革や領地拡大を進めました。長年の因縁を捨て、オーストリアがフランスと同盟を結んだのも、この頃です。
このほか、帝国東部のザクセン、北部のハノーファー、南部のバイエルンといった中規模な領邦でも君主の権限が強化され、2大国の後を追いかけました。一方で西部では未だこまごまとした領邦が多く、プロイセン、オーストリアの保護下に入ることで生き長らえようとする所も少なくありませんでした。
帝国の最期
962年に誕生した神聖ローマ帝国と神聖ローマ皇帝は、三十年戦争の後も存在していました。しかしこの頃、皇帝が帝国(ドイツ)全域に及ぼせるような力は失われていました。皇帝の座を事実上独占していたハプスブルク家も、現実にはオーストリアやボヘミア、そして帝国の外にあるハンガリーなどにしかその権力を行使できない状態で、もはや「皇帝」とは、オーストリア大公にプラスされた名誉職のようなものでした。にも関わらず、皇帝を選ぶ人々(選帝侯)は、廃止どころか7人から9人にまで増えていました。
当初、帝国内にあった北イタリア(ミラノやフィレンツェ)は、12~13世紀頃から独自の道を歩み、15世紀にはルネサンス文化の中心地となります。しかしその後はフランスやスペインがこの地を狙って争い、巡り巡って18世紀にはハプスブルク家、つまり皇帝の所領になりました。これもまた歴史の皮肉と言えましょう。皇帝と叙任権闘争を争ったローマ教皇もかつてのような力は無く、宗教的な面を別にすれば、単にローマを中心とした一国家の君主にすぎなくなっていました。
さて、いよいよ神聖ローマ帝国最後の時がやってきます。きっかけは1789年のフランス革命でした。先述の通り、この頃オーストリアは、プロイセンを最大のライバルと考えており、宿敵だったフランスとは同盟を結んでいました。ところがそのフランスで大規模な政変が起こり、絶対王政も崩壊してしまったのです
。
時の王はルイ16世。彼に嫁いだマリー・アントワネットは、皇帝レオポルド2世の妹でした。妹とその家族を守りたい皇帝は、フランス革命政府に宣戦布告します(ピルニッツ宣言 1791年)。プロイセン他多くの領邦もまた、革命の波が自国及ぶのを嫌がりフランスに侵攻。イギリスやロシアもこれに加わり、革命政権を潰そうとします。
しかしフランス民衆は士気が高く、これらの軍に勝利を重ねました。この中で頭角を現したのがナポレオンです。彼の軍はオーストリア、プロイセンの軍を打ち破ったのみならず、逆に帝国に侵攻して、敵の領地を削っていきました。
ナポレオンは尚も強大なオーストリア、プロイセンに対抗すべく、帝国内に残る中小の領邦を抱き込もうとします。この時期プロイセンは、敗戦で失った領地の「埋め合わせ」の為に、こうした中小の領邦の地を狙っていました。このため多くの中小領邦はやむなくナポレオンに接近。神聖ローマ帝国から離脱して、彼の作ったライン同盟に加わりました。1806年のことです。
レオポルド2世を継いでいた皇帝フランツ2世は、この状況を見てついに神聖ローマ皇帝から退位。これをもって正式に神聖ローマ皇帝という地位はなくなり、同時に神聖ローマ帝国も消滅しました。なおフランツ自身は、あらかじめ2年前に作っていた「オーストリア皇帝」の地位に収まり、以後は名実ともにオーストリアの君主として生きていきます。
それから
ライン同盟には最終的にオーストリア、プロイセン以外のほとんどの領邦が加わりましたが、ナポレオンの失脚と共にも解体されます。しかし、こうした小国の集まりではフランスやイギリスといった大国に太刀打ちできない。こう悟った人々はライン同盟消滅後新たな連合(ドイツ連邦)を結成し、次第に領邦同士の経済的連携、政治的統合を進めていきます。すなわち「ドイツ」という統一国家をつくる動きを積極化させたのでした。
これを最も強力に主導したのが、例によってプロイセンでした。一方のオーストリアは、ドイツ人以外が多く住む地域をその国内に抱えていたことから、この統合からはじかれ、現在もドイツとは別の国となっています。
旧神聖ローマ帝国の領邦が統廃合され、最終的にドイツ帝国として成立したのは、1871年のことです。この前年、神聖ローマ帝国がどうしても直接支配下に組み込めなかったローマ教皇領が、イタリア王国に併合されました。
神聖ローマ帝国はその長い期間を通じて、強力な中心地を持つことは、ついぞありませんでした。これはパリという明確な中心地をもつフランス(西フランク王国)とは正反対といえます。
しかし、一極集中がなされなかったことは、一方で強みにもなりました。三十年戦争後は、ベルリンやウィーンのみならず、帝国各地で復興と文化の発展がみられました。フランスでは、パリ(とヴェルサイユ)の宮廷文化が極端に発達したのに対し、ドイツでは、ベルリン、アーヘン、ケルン、フランクフルト、ミュンヘン、ハンブルクといった地方都市が、各々の文化を開花させました。
現在のドイツも、だいぶベルリンへの集中が進んだとはいえ、こうした地方における個性豊かな文化を持っており、政治的な権利も強いといいます。現在でも神聖ローマ帝国の伝統は、見方によってはドイツに生き続けているのかもしれません。
Comment
前回「神聖ローマ帝国」をリクエストさせていただいた者です。
その2も分かりやすかったです!
場所(国)やら勢力範囲やらがコロコロ変わる神聖ローマ帝国、これで頭から終わりまで一気に追うことができました。
なんども読み返してじっくり理解を深めます。
どうもありがとうございました!
さっそくご覧いただき、ありがとうございます。私自身も神聖ローマ帝国について勉強する良い機会となりました。専門家に確認してもらった文章ではないので、あくまで参考程度にお読みいただければと思います。