世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ミャンマーの歴史~
もくじ
はじめに
グローバル化を迎えた現在、高校では世界史が必修となっているそうです。無論、私も高校時代に習いましたが、国や地域によって扱われる頻度はまちまち。私の印象としては(日本を除けば)
英仏独露>中国>アメリカ>中東>南欧>インド>中央アジア>東欧>朝鮮半島>東南アジア>中南米>北欧>中南アフリカ>オセアニア>カナダ・・・
といったところでしょうか(^_^;)
人物史を見ても、フランスや中国の偉人はどっさり登場しても、東欧や東南アジアなどの君主はほとんど扱わせません。
しかぁし!こうした地域にも、後の歴史に大きな影響を与えた出来事や人物は存在します。
そんな、ちょっぴりマイナー(?)な国について、見ていこうと思います。
2021.4.6 新章「2021年の軍事クーデター」暫定で追加しました。
ミャンマー連邦共和国
記念すべき第1回目は、東南アジアの有望国、ミャンマーです。近年はロヒンギャの迫害問題などで、どうしてもネガティブなイメージがついて回ってしまっている国ですが、本来は仏教を重んじる、日本ともどこか近い国だったりします。
面積は約67万k㎡で日本より広く、国の真ん中をエーヤワディー川(またはイラワジ川)が貫き、その両岸が豊かな水田地帯となっています。人口は約5000万人。首都は2008年ネピドーに移りましたが、旧首都で現在も最大都市なのは、エーヤワディー川河口に位置するヤンゴンです。
多民族の国
ミャンマーは1989年まで「ビルマ」と呼ばれていました。小説『ビルマの竪琴』などは有名ですね。これはこの国を構成する主要民族の名前「ビルマ族」から採ったものです。しかしこの国には、ビルマ族のほか、モン族、シャン族といった人々も住んでおり、歴史的にはむしろビルマ族の方が”新参者”でした。彼らは時に矛を交えながら、長く共存を続けてきました。(以下、1989年まで、国名はビルマで統一します)
パガン朝
エーヤワディー川の流域に最初の国を建設したのは、ピュー族と呼ばれる人々でした。ピュー族は、一説には紀元前2世紀この地に住みはじめ、徐々に本格的な「国」へと発展していったと言われています。またインドやスリランカとの貿易を通じ、仏教やヒンドゥー教を受け入れました。
しかしこのピュー王国は、9世紀に南詔国(現在の中国、雲南省近辺にあった国)の攻撃を受け衰退し、やがて歴史から姿を消しました。
その後しばらくは、モン族の国が各地に成立、発展しますが、11世紀にビルマ族の王が大規模な王朝を築きました。これは都の名前を採ってパガン朝と呼ばれています。パガン朝は、1044年アノーヤター王によって開かれ、11世紀末のチャンシッター王の時代に強大化しました。
パガン(現バガン)の特徴といえば、無数の仏塔(パゴタ)です。歴代の国王や有力者は仏教を保護し、この仏塔を建設しました。この「建設事業」は、税金や財産を社会に「還元」し、人々の信仰心を大事にする、一種の経済政策・福祉政策でもありました。
※ 実物は「バガン遺跡」でググってください。絶景です♪
また当時は「民族」という意識もあまりなく、ビルマ族でもモン族でも民は平等に扱われていたと言われています。比較的平穏な社会の中、文化も発展。特に先述のチャンシッター王の時代や、12世紀後半のナラパティシードゥー王の時代は、ビルマ文字を用いた文学が多数生まれました。
အဲဒီမှာမင်္ဂလာပါ ⇦現代ビルマ語で、『こんにちは』
このビルマ文字は、仏教と同様、インドから伝わった文字を改良したものです。私にはさっぱり読めませんが、アルファベットとも漢字とも異なる文字を見ると、不思議とワクワク感を覚えます。かな文字を見た欧米人もこんな気持ちを抱くのかなぁ。
北のアヴァ、南のペグー、西のアラカン
パガン朝は1287年、モンゴル帝国の攻撃を受け崩壊。すると、王朝下にあった諸勢力が自立していきました。彼らの抵抗によりモンゴルは撤退したものの、この後ビルマは長い分裂期に入ります。
その中でも2大勢力だったのが、シャン族が中心となって築かれたビルマ北部のアヴァ朝と、モン族が主体だった南部のペグー朝でした。両者の関係は時に外敵の侵入に対し手を結んだり、エーヤワディー川を巡って争ったりしながら、16世紀半ばまで続きます。
ペグーは海にも近く、インドや中国、アラビアとも貿易をしていました。16世紀になると、大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国、とりわけポルトガルとの交易も盛んになりました。鉄砲を始めとする新手の武器がもたらされたのもこの時代になってからのことで、ビルマ社会も大きく変化していきました。そういえば日本に鉄砲が入って来たのも同じ16世紀(1543年)ですね。
一方のアヴァは、北隣の中国(明)との関係を強化して国内の統一に努めますが、反乱や周囲の国との戦いが続き疲弊。力を取り戻せないまま、最後は王都を破壊され、滅びました。
この他、西部のベンガル湾沿い(ラカイン地方)には、アラカン王国が成立。この国も仏教系の王国ですが、ベンガルの王朝(現在のバングラデシュ)とも強い結びつきを持っており、イスラム教徒のも多数住んでいました。
タウングー朝
1527年、アヴァ朝が崩壊した際、そこから自立したのが、南にあったタウングーでした。その君主タビンシュエティは、ポルトガル人の持ち込んだ火器を活用し、1539年ペグーを占領。こうして南北のビルマは久々に統一されました。
その跡を継いだのが、彼の義理の弟、バインナウン王です。バインナウンは、タビンシュエティの統一活動の際、猛将として活躍した人物で、王になってからもその武勇は衰えませんでした。彼は同じく仏教王朝として栄えていたラーンナー王国(現在のタイ北部)の王都チェンマイと、シャム王国(タイ王国の昔の名前)の王都アユタヤを相次いで征服し、王朝を空前の規模にまで発展させました。つまり現在のミャンマーとタイの大部分をその支配下に置いたのです。
バインナウンはまた、国内の貨幣や度量衡(大きさや重さの単位)を統一し、経済の流れをよりスムーズにするなど、政治家としても優れていました。なお、彼と同じ時代を生きた織田信長も、戦で支配地を広げ、楽市楽座などの政策で経済を活性化した人物ですね。
バインナウンの死後、シャム王国は再独立し、アラカン王国も侵攻するなどしてタウングー朝は一時大きく力を失いました。しかし17世紀初頭には新しい王家により再建。この後、タウングー朝は、インドや清の侵入、モン族の反乱などに悩みながらも18世紀半ばまで存続します。
この間、ヨーロッパとの貿易もより活発になっていきますが、その主要な貿易相手国は、ポルトガルからオランダ、更にフランス、イギリスへと移っていくことになります。
コンバウン朝
1752年、タウングー朝がモン族の反乱で崩壊し、再び乱世となりますが、それを短期間の内に終息させたのが、ビルマ族の有力者アラウンパヤーでした。彼はコンバウンという村の出身だったことから、この王朝はコンバウン朝と呼ばれています。
アラウンパヤーは王に即位後、モン族を降伏させ、1767年には敵対したシャム王国の都アユタヤを滅ぼしました。しかし今度はビルマの強大化を恐れた中国の清が侵攻し、その間にシャム王国も再建されたため、その征服は叶いませんでした。それゆえ現在もタイとミャンマーは別々の国となっています。
一方、西部ラカイン地方のアラカンは1784年、ボードパヤー王によって征服されました。この征服が後のロヒンギャ問題につながっていきます。
なお中国(清)との関係は、双方のプライドが邪魔してギクシャクしていましたが、1790年頃、両者の交易を望む地方の貴族が、偽の使者を送り込むという奇策によって、国交回復を実現しました。イッツ、ミッションインポッシブル!
英緬戦争
この頃、ビルマの隣インドではイギリスが植民地化を進め、その手をビルマにも伸ばしていきました。1824年両国はベンガル地方を巡って衝突。第一次英緬(イギリス・ビルマ)戦争が起きます。しかしすでに産業革命を経験していた大国イギリスに、ビルマ軍は惨敗。ベンガルどころか、ラカイン地方をも失う手痛い敗北を喫し、更に国内をイギリス人が自由に移動できる権利までを認めさせられました。
これにより対英関係は深まり、その貿易港の一つだったラングーン(後のヤンゴン)も大都市へと発展していきます。しかし同時にイギリスの圧力やトラブルも増し、1852年第二次英緬戦争が勃発。この戦争でビルマは沿岸部をすべて失いました。
ビルマの後進性を痛感した、時の国王ミンドンは、新王都マンダレー(現在ミャンマー第2の都市)を築き、工業化などを進めました。一方、仏教により国内の結束を図るべく、1871年に仏教結集(仏教徒による世界レベルの大会議)を行いました。しかし大英帝国には結局かなわず、ミンドン没後の1885年、第三次英緬戦争によりコンバウン朝は滅亡。ビルマはイギリスの植民地となりました。
植民地時代と独立
英植民地下、ビルマでも鉄道建設など近代化が進められますが、それはイギリスの政治経済を優先したものでした。ビルマからはコメや木材などの原料が輸出されるばかりで工業は発展せず、教育でも西洋的な思想が重視され、仏教などのビルマ的な文化は排されました。この辺も、近代化の裏で城や仏像を壊した明治時代の日本とよく似ています。
20世紀初頭に第一次世界大戦が起こると、ビルマ人もイギリス軍に協力。戦場に散った人も少なくありませんでした。戦後、協力の見返りとしてイギリスから自治権などの要求をしますが、イギリスの返答は不十分なものだったため、反発が広まっていきます。
そのため1920年~30年代、ビルマ人の間でも様々な政治活動が行われます。ちょうどインドではガンディーが非暴力非服従運動を行っていた時期に当たり、ビルマもそれに倣った格好で、ボイコットや仏教文化の見直しといった活動が行われました。中でも1935年頃に結成された「タキン党」は大きな政治団体となっていき、後にビルマ独立の指導者となるアウンサンもこのメンバーとなりました。彼はアウンサン・スーチー氏の父親です。
1939年第二次世界大戦が起き、政治的緊張の高まったイギリスは、ビルマへの引き締めを強化。アウンサンは、当時米英仏らと敵対関係にあった日本に接近します。当時軍政下にあった日本はアジアの覇者となるべく、表面上は欧米の植民地下にあったインドや東南アジアの「独立と解放」を掲げていました。
アウンサンもその言葉を信じて日本軍と協力。1942年、日本はビルマに侵攻し、イギリス軍を追い出して、1943年「ビルマ独立」を宣言しました。しかしその後も日本軍はビルマに居座り続けたため、ビルマの独立は「形だけ」のものとなり、「支配者がイギリスから日本に代わっただけ」という結果に終わりました。
1945年、日本は敗戦により撤退。ビルマは再びイギリス軍の支配を受けますが、イギリスもまた大戦でボロボロとなり、植民地の維持が難しくなっていました。1947年、イギリス最大の植民地だったインドの独立が現実味を帯びてくる中、アウンサンは英政府と交渉を重ね、遂にビルマ独立の同意を得ました。しかしその年の7月、彼は政敵に暗殺され、悲願の瞬間を見る事はありませんでした。
独裁政権と軍事政権
翌1948年、今度こそビルマは、独立を果たします。イギリスの植民地政府があったラングーンがそのまま首都となり、初代首相には元タキン党員で、アウンサンの同士だったウー・ヌが選ばれました。ウー・ヌ政権はコメの輸出で得た資金で工業化や福祉政策を進めていきます。
しかし同時に多数派であるビルマ族を優遇する政策が採られたこともあり、少数民族が各地で反乱を起こし、治安が悪化。この結果、1962年に軍人のネ・ウィンがクーデターを起こし、政権に就きます。独立後、曲がりなりにも民主主義が維持されていたビルマは、ここから独裁政権の道を進んでいきました。反乱を武力で抑え込んだことで、国内は一見、安定を取り戻したかに見えましたが、当然人々の不満は溜まり、また国際的にも孤立してしまいます。
冷戦が終わりに近づいた1988年、長い抑圧に耐えかねた国民が反乱を起こし、ネ・ウィン政権は遂に崩壊します。しかしその後の政権も反乱を抑え込むことができず、短期間の内に次々失脚。最後はビルマ軍が反乱を無理やり鎮圧して、政権の座に就きました。この軍事独裁政権の下、ビルマの国名は、より現地語に近い「ミャンマー」に、首都ラングーンの名は「ヤンゴン」に変更されました。
当初、社会が安定したら、すぐに政権を譲ると言っていた軍事政権ですが、何年経ってもそれは実現せず、民主化を求める運動がおこるようになります。このリーダーが、かのアウンサン・スーチーでした。軍部は彼女を自宅軟禁するなど民主化運動を弾圧。国連から非難や経済制裁を受け、なおも孤立の道を進んでいきます。2007年には僧侶による民主化デモを武力で抑え込み、取材に来ていた日本人のジャーナリストも命を落としました。
上からの民主化と民族問題
2010年頃になると、ミャンマーの軍事政権も遂に民主化に向けて動き出します。これには経済制裁による経済の悪化や、中東で起こった民主化運動(いわゆるアラブの春)により、チュニジアやエジプトの独裁政権が倒されたことも背景にあったのかもしれません。
2010年自宅軟禁を解かれたアウンサン・スーチーは、翌11年の選挙で遂に政権の座に就きました。(大統領ではなく、国家顧問という立場)国際社会もミャンマーへの経済制裁を解除。すると「新しい投資先」として海外からの企業が多数進出してきました。
では、民主化によってミャンマーはバンバンザイの状態かというと、それほど単純ではないのが現実。長い経済制裁により貧困問題は未だ深刻ですし、国内の少数民族問題は、軍事政権下で抑圧されて下火になっていただけで、独立直後の状態とほとんど変わっていません。
近年紙面を賑わせているロヒンギャという人々は、上にも少し書いたラカイン地方に住むイスラム系住民のことです。仏教徒が多いミャンマー国民の大半は、このイスラム系の人々を同じミャンマー国民ではなく、不法な移民として扱っています。この結果、迫害が広がっているのです。アウンサン・スーチー政権も、ロヒンギャを保護するような政策を採ると国民の支持を失ってしまう恐れがあり、なかなか解決に踏み切れずにいるのが現状のようです。
仏教遺跡が並ぶバガンに都があった時代のように、他者(異民族)を受け入れる心がミャンマー社会に戻ってくれば、このような問題にも光が見えてくるのでは、と思います。
追記:2021年の軍事クーデター
2021年の1月、ミャンマーで軍事クーデターが起こり、アウンサン・スーチーをはじめとする政権要人を拘束してしまいました。この事件については、まだ情報が錯綜しており、決定的なことは言えません。軍側の言い分として、クーデターの原因は「選挙に不正があった」ということですが、民主主義を進める政権と、軍事政権との間に対立があったことは確かなようです。
これが「上からの民主化」の難しいところです。独裁政治を行っていた集団は残っているのですから、民主化を定着させるためには、彼らの力を減じていく必要があります。しかし当然それには激しい抵抗が生じます。この抵抗にうまく対処できなかったのが、クーデターの要因だったのかもしれません。(※あくまで私個人の見解です)
ミャンマー情勢をややこしくしているのが、これに国際社会の対立が絡んでいる事でしょう。ミャンマーのクーデターを支持している国の一つのが、中国の習近平政権。ミャンマー周辺では、中国寄りの国(ラオス、カンボジアなど)と、中国と問題を抱えている国(インド、ベトナムなど)があり、ミャンマーに自国寄りの政権ができれば、東南アジア、南アジアにも影響力を強めることができる。習政権にはこのような考えがあるのかもしれません。
習政権やミャンマーの軍事政権を単純に「悪」と扱うのは一方的、短絡的で注意が必要です。が、少なくとも罪なき人々が命を落としている状況は非難されるべきことだと思います。(※繰り返しになりますが、あくまで私個人の見解です)