世界史に(あまり)出てこない国の歩み~ニュージーランドの歴史~
今回はニュージーランドの歴史を見ていきたいと思います。
ニュージーランドは南半球、オーストラリア大陸の東約2千kmに位置する島国で、大きく北島と南島に分かれています。人より羊の方が多い事で有名です。日本と同様地震や火山が多い国でもあります。

もくじ
マオリの世界
考古学などから、この島々に人類がやって来たのは、西暦1200年前後と考えられており、南極大陸を除けば、地球上でも最も人類の進出が遅かった陸地の一つです。先住民マオリは、ポリネシア系の言葉を話す人々で、同じポリネシア系の人々が住むサモアやマルケサス諸島から、カヌーで海を渡ってきたとされます。

マオリに伝わる伝承には、「ハワイキと呼ばれる島々からワカと呼ばれるカヌーで、アオテアロア(ニュージーランドのこと)にたどり着いた」というものがあり、また、乗って来たカヌー(船団)の違いが、やがて各部族の違いになったと伝えられているそうです。社会生活の中心として「マラエ」と呼ばれる集会所があり、そこでは現代でも、会議や葬儀など、あらゆることが執り行われています。
マオリは森の神や海の神、大地の神、農耕の神などを信仰していました。そしてこうした自然に込められた超自然的なパワーを「マナ」と呼んでいました。マナは威信や能力という形で人間にも宿っており、マナの強いとされた者が各マオリ社会の首長となって、社会を束ねていました。
一方、マナは神聖なものであるため、無闇に触れてはならないという「タプ」と呼ばれる考えがありました。現在「禁句」などに用いられる「タブー」の語源です。この超自然的なものを形にする彫刻師や、人々の地位や出自といったアイデンティティを体に刻むタトゥー師は、宗教行事を執り行うシャーマンと同じくらい神聖な職とされ敬われました。
ただ、マオリの国どうしは土地などを巡ってたびたび戦争を起こしていました。1500年頃には、戦いの拠点として城塞が各地に築かれます。この城塞はマオリ語で「パ」と呼ばれます。
ヨーロッパ人がやって来た
そんな「アオテアロア」にヨーロッパ人がやって来たのは17世紀のこと。1642年オランダの探検家タスマンが太平洋を航行中に、この島々を“発見”します。そして、祖国オランダのゼーラント地方にちなみ、「ゼーランディア・ノヴァ(新ゼーラント)」と命名しました。この地名の英語読みが、「ニュージーランド」です。
それから約1世紀後の1768年、今度はイギリスの探検家クックがニュージーランドを訪れ、北島に上陸してマオリとも接触しますが、間もなく彼らの攻撃に遭い退去。その後北島、南島の海岸を調査し、動植物のサンプルをヨーロッパに持ち帰りました。
ニュージーランドの存在がヨーロッパ人に知れ渡ると、間もなく商人や宣教師が訪れるようになります。その結果、マオリの社会に銃やキリスト教、お酒などが伝わります。戦いが激化したり、宗教観が変わったりと、社会に様々な変化が起こりました。
自然豊かで気候も穏やかなニュージーランドに移住するヨーロッパ人も出てきます。移住希望者は主としてイギリス人でしたが、間もなくフランス人もニュージーランドを狙うようになっていきます。また、マオリ社会には、イギリスのような法律が無かったため、移住者とのトラブルが多発。中には当時の流刑地オーストラリアから脱走してきた無法者などもやって来て、治安が心配になってきます。
1835年イギリスから送られてきた弁務官バズビーは、マオリの首長を集め、「ニュージーランド部族連合国」の独立を宣言させました。これによりニュージーランドは「法と秩序」を持つ「独立国」となり、また、フランスの手出しを防ぐことが出来る!バズビーはそう狙っていました。
しかしマオリにいきなり近代的な法律や政府を作れと言われても無理な話。「独立」は形だけのもので、目立った成果といえば、ニュージーランドの国旗が初めて作られたくらいでした。
ワイタンギ条約
「部族連合国」成立後も、マオリ間の戦闘は相変わらず起こり、移民とのトラブルも続いていました。この頃イギリス本国では「ニュージーランド会社」が設立され、マオリから土地を買い取っては移民に売り渡す事業を積極化させていきます。が、マオリにとっても土地は大切な財産だし、所有者が曖昧な共有地などもあり、土地購入は必ずしもうまく行きません。
増え続ける移民に対し、イギリス政府はニュージーランドを直接支配下に置き、移民たちをイギリスの法律で守ろうと考え始めました。1839年ニュージーランドに派遣された軍人ホブソンは、1840年北島北部のワイタンギにマオリの首長数十人を集め、条約を結ばせます。これがワイタンギ条約です。
条約には英語・マオリ語で
1「マオリの首長は、その主権をイギリスに譲り渡す。」
2「マオリの土地や森林などの所有権は、イギリス国王(ヴィクトリア女王)によって保障される。土地の売買は(民間会社よりも)イギリス国王が優先。」
3「イギリス国民の保護や特権をマオリに与える。」
とありました。
こうして「マオリの同意」を得て、ニュージーランドはイギリスの植民地となります。

しかしこの条約のマオリ語訳には、英文とビミョーな食い違いがありました。
例えば、マオリの解釈では、第2条の「所有権」に当たる語が「首長の権利」となっており、第1条で譲ると書かれた「ガバナーシップ(主権)」は、マオリにとって「カワナタンガ」という意味不明な単語で書かれていました(「ガバナーシップ」という英単語を無理やりマオリ語にしたものらしい)。
だからマオリは「自分たちの権利は第2条で保障されている」、イギリス政府は「マオリの主権は第1条でイギリスに移った」と、それぞれ都合のいい解釈をしてしまうものになってしまいました。こうした誤解、食い違いは後々イギリスとマオリとの間に大きな問題を引き起こす事になります。
羊の導入と土地戦争
ニュージーランドへの移民はその後も増え続け、1850年代には2万人を超えます。それに比例してヨーロッパ系住民(イギリス人)の持つ土地も増えていきました。特にマオリの少なかった南島は、19世紀半ばまでにそのほとんどがヨーロッパ系住民のものとなります。1852年にニュージーランド基本法(憲法みたいなもの)が定められ、イギリス直轄の植民地から自治植民地となり、1856年からは内閣制度も導入されました。
買い入れた土地で移民たちは農業や畜産業を営んでいましたが、中でも有名になったのが羊です。ニュージーランドの気候は羊の飼育と相性が良く、1850年代には70万頭ほどだったのが、1880年代には1千万頭を超えるまでに激増しました。ちょうどこの1880年代には冷凍船が実用化され、それまでの毛皮(羊毛)に加え、肉、チーズ、バターといった腐りやすい物も、遠く離れたヨーロッパへ運ぶことが出来るようになります。これにより「羊産業」は更に発展していきました。

羊ばかりではありません。その陰に隠れてニュージーランドでは牛の飼育も盛んになりましたし、1850~60年代には短いながらゴールドラッシュも起こりました。20世紀初頭に中国から導入された、キウイフルーツの一大産地であることも忘れてはならないですね。
こうした変化は当然ながら、マオリ社会も変えていきます。それまでマオリの農業はサツマイモが中心でしたが、ジャガイモや小麦といった新たな作物を知り、これらを栽培してヨーロッパ人に売る人々も出てきました。
一方で、ヨーロッパ人の、土地を売ってくれという声があまりに強くなってくると、これに難色を示すマオリも当然出てきます。彼らは次第にヨーロッパ人土地を売るのを拒否するようになりますが、一人ひとりでは心もとない。そこで「イギリスには国を束ねる王がいる。私達も部族を超えたマオリの王を立てて、連携しよう!」という声が上がりました。
こうして1854年、「マオリ王擁立運動」が始まりました。初代マオリ王は、北島のワイカト地方を治めていたテ・フェロフェロ(1856年即位)。ワイカト地方は土地が豊かなため、ヨーロッパ人による土地購入の要望が強い場所の一つでしたが、マオリ達はこれを拒否し続けます。
同じく、北島のタラナキ地方も、ヨーロッパ人が土地を欲しがっていた地でした。ここでも首長キンギの主導で不売運動が起こっていましたが、一方で土地を売りたいと言う人もいて、マオリ同士の対立が起きていました。ヨーロッパ人は当然後者の側につき、1860年一方的にタラナキの測地を始めます。これには首長たちが猛反対し、ついには戦争へと発展してします。

このニュージーランド土地戦争には、テ・フェロフェロを継いだ2代目マオリ王タウィアオも巻き込まれ、戦火は彼の本拠地であるワイカト地方にも広がります。近代兵器を持った植民地政府軍に対し、貧弱な武器しか持たないマオリ達はゲリラ戦で応戦。新たな要塞(パ)も建設され、必死の抵抗を見せました。しかし結局、植民地軍を押し返すには至らず、1860年代半ばまでにマオリの抵抗運動は鎮圧。その後も断続的に戦いは起こりましたが、1872年タラナキの首長キンギは降伏しました。
この後、多くのマオリが反乱者として扱われ、ワイカト地方やタラナキ地方の土地も没収されました。戦争中にワイカト地方を追われたタウィアオ王はマニアポト地方に逃れ、抵抗を続けました。後に「キングカントリー」と呼ばれるようになるこの地は「半鎖国」の状態で、独自の生活圏を築きあげます。王国内ではマオリ語の新聞が発行され、植民地との土地問題も議論されました。キングカントリーが植民地政府と正式に和解するのは1881年。鎖国を説くのは1885年のことでした。
世界初の女性選挙権
移民の増加は、マオリ人口の少なかった南島にも多くの都市や居住地を出現させました。これを受けて1865年、ニュージーランドの首都が北島北部のオークランドから、南島へのアクセスも良い、北島南部のウエリントンに移ります。
土地戦争の結果、マオリから広大な土地を没収した政府でしたが、それでも増え続ける移民、ヨーロッパ系住民には十分に行きわたらず、土地なし労働者が増加。一方で大地主もおり、その不平等さを解決する声が高くなります。
1879年男子普通選挙法が制定され、マオリも含む全成人男性に選挙権が与えられます。そして1890年、自由党政権が発足すると、大地主から土地を買い上げ、多数の農民に分配する政策を進めていきました。また、女性や子どもに過酷な労働を課すことを制限する工場法や、雇用者と労働者の代表を集めて委員会を作り、その問題を議論する、労働争議仲裁法なども制定されました。
この時代の女性に目を向けると、ヨーロッパで女性解放運動が始まっていたものの、まだまだ「女は家庭!」などという考えが根強く残っていました。ニュージーランドでもそのような考えを持った人は少なくなかったのですが、キャサリン・シェパードら運動家たちは、集会、投書、署名活動などを地道に続け、政府に働きかけていきます。

この結果、新しい選挙法が1893年に成立し、近代国家としては世界で初めて、女性に選挙権が認められました。ただし、議員への立候補は1919年まで認められないなど、男女平等とはまだまだ程遠い状態ではありました。
イギリス人?ニュージーランド人?
ニュージーランドへの移民は主にイギリスなどのヨーロッパ人でしたが、そればかりではありません。先ほど少し触れたゴールドラッシュの時代には、多くの中国系移民がやってきました。
しかしアジア人への偏見もまた当時は強く、次第に中国人排除の声が高まります。政府は1880年代から中国人移民に制限を設け始め、1926年には中国人の永住は原則認められなくなります。この差別的法が撤廃されたのは1944年のことでした。オーストラリアの白豪主義ほどではなかったにせよ、ニュージーランドでも、ヨーロッパ系とアジア(中国)系との間に法的な差別が存在したのです。
そんなニュージーランドですが、1914年に起きた第一次世界大戦では「イギリス軍」として兵を派遣しました。ニュージーランドは1907年に自治植民地から自治領へ「格上げ」されていましたが、自分たちは「イギリス人である」という意識がまだまだ強かったわけです。しかしこの第一次世界大戦で、イギリス本国を超える戦死者数(約1万7千人)を出しつつ、イギリスを勝利に導いたことは、「ニュージーランド人」という自信、アイデンティティを生み出すきっかけとなりました。戦後のパリ講和会議では、イギリス人とは別にニュージーランド独自の代表団を派遣しています。
そして1931年ウェストミンスター憲章がイギリスで可決。これによりニュージーランドは、カナダ、オーストラリア、南アフリカ連邦とともに、イギリスと「対等」の立場におかれます。これによりニュージーランドは、イギリスから事実上「独立」する権利を得たといえます。しかし、まだこの時点ではイギリスとの関係を維持したいという思いも強く、ニュージーランド政府側が憲章の可決を見送っています。
恐慌と福祉政策、そして第二次世界大戦
ウェストミンスター憲章が発せられたちょうどその頃、世界経済は大きな危機を迎えていました。世界恐慌です。この波はニュージーランド経済にも打撃を与え、バターや羊毛の価格は下落。街には失業者があふれ、デモや暴動も各地で発生しました。
1935年首相となったのが、労働党のマイケル・ジョセフ・サヴェジです。サヴェジ首相は失業者をはじめとする国民の生活安定化を第一に考えました。主なものだけでも、高齢者への年金制度、障がい者や孤児への給付金、学校教育や医療費の一部無料化、公共事業による雇用拡大などが挙げられます。最後の公共事業については、農牧業に対して遅れがちだった工業を発展させるという意味もありました。こうしてニュージーランドは当時の世界でもトップレベルの福祉国家へと変貌していきます。
1939年に第二次世界大戦が始まると、ニュージーランドはやはりイギリス側に立って参戦し、ギリシャやエジプトなどでドイツ軍と戦いました。しかし1941年末、日本の真珠湾攻撃で戦火は太平洋戦争に拡大。ニュージーランド本土が戦場となる危険性が高まりました。この時、イギリス以上にニュージーランドが頼りにしたのが、同じく太平洋に面するアメリカ合衆国でした。

ヨーロッパや太平洋の島々で、ニュージーランド兵は1千人以上が犠牲となりましたが、幸いニュージーランドの国土が戦場になることはありませんでした。しかし、イギリスとの関係は戦後微妙に変化し、1947年ついにウェストミンスター憲章を可決。ニュージーランドは事実上の独立国となります。一方で、1951年にはアメリカ、オーストラリアと軍事同盟ANZUSを結成しました。
脱イギリス・脱福祉国家
とはいえ、戦後も最大の貿易相手国は相変わらずイギリスで、大量の農作物をこの国に輸出していました。景気が回復した後も福祉国家の性格は変わらず、ニュージーランド国民の所得も世界最高水準でした。
そんな順風満帆な時代が曲がり角を迎えたのが1960年代後半です。輸出先のイギリスが、EC(EUの前身)加盟に向けて動き出したのです。もしそれが実現すれば、イギリスとヨーロッパとの貿易が拡大し、遠く離れたニュージーランドとの貿易は縮小することは目に見えていました。そこでニュージーランドは、アジアや南北アメリカなど新しい市場(貿易相手国)を探す必要に迫られました。
しかし市場の開拓がうまく実現しないまま、1973年イギリスはECに加盟します。更に予期しない出来事として、同じ年にオイルショックも発生。ニュージーランド経済は一気に悪化し、インフレと財政赤字が深刻化しました。
1984年首相となったデイヴィット・ロンギは、蔵相ロジャー・ダグラスとともに、財政支出を削減するべく、それまでの高福祉政策を緩め、新自由主義経済を導入しました。具体的には、公企業の民営化、規制緩和、自由貿易、各種補除金の削減や廃止などなど。これによりニュージーランドの輸出品に競争力がつき、財政赤字も解消に向かいましたが、他の国と同様、貧富の格差や失業者の拡大を招きました。
外交面では、アメリカとの関係を強化してきましたが、一方でアメリカやフランスが太平洋でおこなっていた核実験には一貫して反対しています。
マオリとの和解
この間、マオリにとっては苦難の時代が続いていました。19世紀通じて、ヨーロッパ人の持ち込んだ病気で人口が減少。学校では英語教育が普及し、マオリ語を話せる人も減っていきます。オーストラリアの先住民アボリジニとは異なり、選挙権などは早くから与えられていましたが、ヨーロッパ系住民から強い差別を受けていました。
その差別解消に少なからず影響を与えたのが、ラグビーをはじめとするスポーツです。特にマオリ人のネピア選手は1920年代ラグビーで輝かしい活躍を見せました。この頃までにはマオリの伝統的踊り「ハカ」も試合前に披露されるようになります。

第二次世界大戦後になると、マオリ文化の復権運動が本格化していきます。1975年ワイタンギ審判所が開設され、85年からはワイタンギ条約(1840年)以降の土地を巡る問題が審査されるようになりました。そしてマオリへの謝罪や土地の返還、補償などが少しずつではありますが、進められるようになります。
更に1987年にはマオリ語がニュージーランドの公用語に加わりました。1995年には、マオリ女王アタイランギカーフとイギリス女王エリザベス2世との間で正式な和解が成立。まだまだ課題は多いものの、両者の歩み寄り進める努力が続けられています。
21世紀のニュージーランド
2011年2月、南島のクライストチャーチ近郊で大地震が起こり、日本人留学生を含む多くの犠牲者が出ました。この時外国からも多くの部隊が救援に駆け付けましたが、日本もニュージーランドに多くの隊員を派遣しました。しかしその半月後、今度は日本で東日本大震災が発生。ニュージーランド政府は「今度は私達が日本を救う番だ」として、日本に救援部隊を派遣してくれました。このエピソードは、日本とニュージーランドが良きパートナーシップを築いているだけでなく、ニュージーランドも環太平洋造山帯上にあり、地震や火山の多い国であることを改めて認識させられる出来事でもありました。
2017年にジャシンダ・アーダーン政権が発足。彼女は史上最年少の女性首相として、また2018年には産休を取ったことで話題を呼びましたが、間もなく発生したコロナ危機でも強いリーダーシップと、国民に寄り添う共感力を発揮し、これを乗り切りました。アーダーンは2023年に首相を辞任しましたが、力を誇示する大国の指導者が多い中、それとは異なるリーダーの在り方を示した人物といえましょう。