紀元前1世紀 ~内乱の1世紀~
紀元前1世紀、いよいよローマがローマ帝国へと最終進化を遂げます。
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もくじ
中国
この頃中国では、漢王朝の前半が終わろうとしていました。漢王朝を大帝国に成長させた武帝は、BC87年が死去。その後は無能な皇帝が続き、彼らの外戚(妻の一族など)が権力争いを始めました。
統一王朝による長く安定した統治の中、BC1世紀の中国は経済が発展しますが、それによる貧富の格差もまた広がっていきました。この問題を解決しようと、皇帝に成り代わって権力を握ろうとしたのが、外戚の一人王莽でした。漢(前漢王朝)は間もなく、彼により一時断絶させられることとなります。
中国の北に広がる草原地帯を支配していた遊牧民帝国の匈奴は、度重なる漢の攻撃を前に衰退し、BC54年東西に分裂。BC33年には漢の女性王昭君が東匈奴の王へ嫁ぐなど、関係改善がなされました。
インド
BC2世紀にマウリヤ朝が崩壊した後、インド北部のガンジス川流域にはシュンガ朝、次いでカーンヴァ朝が成立しますが、いずれもマウリヤ朝のような大きな勢力にはなりませんでした。南インドのデカン高原では、サータヴァーハナ朝が大きく成長します。
仏教やサンスクリット語はこの南インドの王朝でも重んじられ、有名なアジャンター石窟寺院も、BC1世紀頃から建造が始まったと考えられています。
西ヨーロッパ
この頃、ヨーロッパの中部~西部はケルト人とゲルマン人の社会が広がっていました。ゲルマン人は現在のドイツや北欧、オランダなどに住み、ケルト人は現在のフランス、スイス、イギリス、アイルランドなどに広がっていました。
ローマ人は現在のフランスをガリア地方、そこに住むケルト系住民をガリア人と呼んでいました。更に現在のイギリスに住んでいたケルト人はブリトン人、アイルランドに住んでいたケルト人はゲール人と呼ばれます。
BC1世紀半ば、こうしたケルト社会の征服に乗り出したのが、ローマの武将ユリウス・カエサルでした。ローマ軍はBC52年アレシアの戦いでガリア人に対する決定的な勝利を収めました。こうした経験をカエサルは『ガリア戦記』という書物に記録しています。これは文字の無かった当時のケルト社会を知るうえで、貴重な資料となっています。ガリアを征服したローマ軍は、後にセーヌ川の一角にローマ風の都市を建設しました。ここはもともとガリア系パリシィ族の住んでいた場所だったことから、「パリ」という名前の都市となります。
カエサルの軍はそのままドーバー海峡を渡り、ブリトン人も征服。後の時代にブリタニア属州が置かれます。ここから「ブリテン島」の名が生まれました。ローマの及ばないケルト社会は、スコットランドやウェールズ、それにアイルランドなどに限られることとなります。
一方のゲルマン人社会は、現在のオランダやベルギーに住んでいた人々(バターフ族など)を除けば、ローマに征服された場所は少なく、むしろ度々帝国に侵入する「野蛮でやっかいな人々」と見られていました。
ローマとエジプト
BC2世紀末のユグルタ戦争でローマ軍が意外に苦戦したことから、時の有力者マリウスは、当時問題となっていた無産市民(土地なしの市民)を傭兵として雇用するなどの軍制改革を行いました。しかしマリウスは元老院(貴族)と敵対関係にあり、その没後は元老院派のスッラが保守的な政治を行いました。このスッラに対抗したのが、平民に人気のあったカリスマ、前述のユリウス・カエサルです。
カエサルと、同じく武功のあったポンペイウス、クラッススの3人はBC60年三頭政治を開始し、元老院に対抗しました。有力者3人がバランスを保つことで政治を安定化させようとしたのです。しかし言うは易し、行うは難し。3人は間もなく不仲となり、クラッススが死去したことで残る2人の権力争いが激化しました。
元老院はポンペイウスに近づき、ガリアを征服したカエサルをローマから遠ざけようとしますが、カエサルは「賽は投げられた」と覚悟を決めて帰国し、ポンペイウスをローマから追い出します。
ポンペイウスは、当時ローマの保護のもとで命脈を保っていた、プトレマイオス朝エジプト王国に逃げて再起を図りますが、間もなく暗殺されてしまいました。ポンペイウスを追ってきたカエサルは、ライバルの死を嘆いたと言います。この時彼に近づいたのが、同じく権力争いの真っただ中にあったエジプト女王クレオパトラ(7世)でした。2人はすぐに意気投合し、後には子供も生まれました。
エジプト女王を味方につけ帰国したカエサルを民衆は歓迎。元老院を抑えつけて独裁官となります。そして、市民権の拡大、新しい暦(ユリウス暦)の制定、無産市民の入植などを実施していきました。しかし元来独裁を嫌うローマの貴族は、BC44年カエサルを暗殺してしまいます。
カエサルの死後、彼の忠臣アントニウスとレピドゥス、養子のオクタヴィアヌスにより第2回三頭政治が始まりますが、こちらもうまくいかず、特にアントニウスとオクタヴィアヌスは激しく対立します。
エジプトのクレオパトラはアントニウスと手を結びますが、これをオクタヴィアヌスは、「アントニウスはローマを捨てた」と非難。両者は結局BC31年アクティウムの海戦で激突します。この結果アントニウスとクレオパトラは敗死し、プトレマイオス朝も滅亡しました。
勝利したオクタヴィアヌスは、カエサルを引き継いで大きな権力を手にしますが、暗殺された彼の二の舞を避けるべく自らは「第一市民」、つまりあくまで市民の代表を名乗り、元老院との関係も改善しました。この結果BC27年元老院からは尊厳者「アウグストゥス」の称号を得ます。
かくして内乱の一世紀は終わり、帝政ローマが始まります。
アフリカ北西部(現アルジェリア・モロッコ)
北アフリカにあったヌミディア王国は、BC111年に起こったユグルタ戦争の後、ローマとヌミディアの隣国マウレタニア王国によって分割されました。そのうち東側はローマの属国としてしばらく生き長らえましたが、結局BC1世紀半ばに王国自体が廃止されてしまいました。
旧ヌミディアの西側を手に入れたマウレタニア王国は、ローマと友好関係を保つことで存続を許されていましたが、結局AD1世紀に国王をローマに殺害され、滅びました。
アラビア半島
アラビア半島の紅海沿岸部では、エジプトなどとの交易で発展。中でも現イエメンの地にあったヒムヤル王国は急成長していきます。
内陸部は今も昔も乾燥した大地が広がっていましたが、BC1世紀頃までにはラクダが家畜化され、馬も外世界から新たに持ち込ます。この結果、ベドウィンと呼ばれる、砂漠を行く遊牧民が登場。彼らは匈奴やスキタイのように農業社会を恐怖させる存在であると同時に、優れた騎馬隊として後の時代重宝されることとなります。
アナトリア地方(現トルコ)
アナトリア地方では、セレウコス朝シリア王国の弱体化にともない、大小さまざまな国が自立していました。その中でもBC1世紀強大化したのがアナトリア北東部のポントゥス王国です。
ポントゥス王国は黒海という、地中海と並んで重要な内海に面しており、この海岸伝いに領地を拡大。BC1世紀初頭ミトリダテス6世の時代には、クリミア半島にあったボスポロス王国を降伏させ、黒海の東半分を支配域に入れました。かくして強国となったポントゥス王国ですが、ローマとの衝突は避けられませんでした。4度にわたるミトリダテス戦争のさなかにミトリダテス6世も死去し、結局はBC47年カエサルの率いる軍に敗れ、その属州となりました。
コーカサス地方
アルメニア王国はBC1世紀初頭、ティグラネス2世の元で最盛期を迎えます。コルキス、イベリア、アルバニアなど周囲の国を服属させ、更に衰退傾向にあったセレウコス朝シリアの王位までも獲得。それゆえ彼は「大王」の称号を受けます。しかし拡大を続けた結果、アルメニアもまた前述のポントゥス王国と同様の運命を辿ります。ローマに敗北したアルメニアは、他のコーカサスの国と共にローマに服従を強いられ、やがてローマとパルティア王国(現イラン・イラクにあった国)との間で争いが起こると、その最前線に置かれることとなります。
シリア・パレスティナ地方
BC1世紀、セレウコス朝シリア王国はどんどん衰退の色を見せ、BC1世紀初頭には前述のように、アルメニア王ティグラネス2世の統治下に置かれたこともありました。間もなくアルメニアとローマが衝突し、セレウコス朝もこの争いに巻き込まれます。BC63年、ローマの有力者ポンペイウスの軍が侵攻し、セレウコス朝は滅亡、シリア属州となりました。
同時にパレスティナのハスモン朝もローマに屈しますが、BC37年にはヘロデ大王が即位し、王位を奪います。ヘロデ自身はユダヤ人ではなかったものの、彼らの文化を尊重する政治を行って支持を得ました。ヘロデが死去する直前のBC4年頃、パレスティナのベツレヘムに男児が生まれます。この男児が後に人類の歴史に最も影響を与える宗教家の一人になるとは、この時誰が予想したでしょうか。
主な出来事
BC88 ミトリダテス戦争~63(アナトリア)
BC73 スパルタクスの乱(ローマ)
BC63 セレウコス朝滅亡(西アジア)
BC60 クチャに西域都護府設置(東アジア)
BC58~51 カエサル、ガリア征服(西ヨーロッパ)
BC54 匈奴分裂(モンゴル)
BC50 クレオパトラ7世即位(エジプト)
BC47 ポントゥス王国滅亡(アナトリア)
BC46 ヌミディア王国滅亡(北アフリカ)
BC44 カエサル暗殺(ローマ)
BC37 ヘロデ大王即位(パレスティナ)
BC33 王昭君、東匈奴に嫁ぐ(中国)
BC31 アクティウムの海戦(ギリシャ)
BC30 プトレマイオス朝滅亡(エジプト)
BC27 オクタヴィアヌス、アウグストゥスの称号得る帝政ローマ開始(ローマ)
BC1 王莽、実権掌握(中国)
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