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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

世界史に(あまり)出てこない国の歩み~フィリピンの歴史~

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 1年ぶりの「世界史にあまり出てこない」シリーズですが、通常運転で参ります(笑)今回は日本でもお馴染みの国、東南アジアの島国フィリピンの歴史を紹介します。

日本人にとってバナナやリゾート地セブ島でお馴染みのフィリピン。ですが、その歴史はあまり知られていません。高校世界史でも、要所要所で出てくることはあるものの、そのために全体の流れはなかなか掴みにくいのではないでしょうか?

フィリピン地図

まずはその位置を見てみます。フィリピンは東南アジアに属する熱帯の島国です。面積は約30万平方km、人口は約1億2千万人と、面積も人口も日本とほぼ一緒。加えて島国でコメが主食、台風や地震、火山が多いという共通点もあります。

フィリピンの先住民たち

 フィリピンを形づくっている島々はアジア大陸から離れているものの、3万年ほど前までには人類が進出していたと考えられています。おそらくは船を使い、はるばる海を渡ってフィリピンに上陸したのでしょう。それも1度や2度ではなく、出身地も中国や台湾、インドシナ半島、太平洋の島々と様々だったと考えられています。

 移住者の言葉が混ざり合い、やがては現在のフィリピンでも話されているタガログ語が生まれました。台湾の先住民やオセアニアの島々でも話されているオーストロネシア系の一つです。

古代のフィリピン

 フィリピンの古代についてですが実はよくわかっていません。古代フィリピン人も文字は持っていたようですが、これを使う人が限定的だったのか、気候のためか、文字資料がほとんど残っていないのです。

 そもそも東南アジアは高温多湿の気候のため、保存技術のなかった時代の紙の記録(厳密には葉っぱなどを使っていました)はすぐボロボロになってしまい、大半は後世に残りませんでした。だからタイやカンボジア、インドネシアなどでも、古代史を知る手がかりとしては、硬い石に刻まれた碑文や、中国で書かれたものなどが中心となっています。

 

 しかもフィリピンには、カンボジアのアンコール王朝インドネシアのシャイレーンドラ王朝といった大きな国は出現せず、アンコールワットやボロブドゥールなどの大きな建造物も造られませんでした。ゆえに碑文なども少なく、外国の文書にも、当時のフィリピンを指すと思われる地名などはあまり出て来ません。このような背景から、フィリピンの古代史研究はなかなか進んでいないのが現状のようです。

 

 それでも研究者さんの地道な活動によってわかっていることもあります。それによれば、AD2世紀にいわゆる「海のシルクロード」が形成されて以降、フィリピン人も大陸との交易を盛んに行うようになりました。実際、現在の首都マニラのあるルソン島などでは、中国製の陶磁器が遺跡からよく出土するそうです。また、当時フィリピン全体を支配するような国はなかったものの、各地に王や首長をトップとしたバランガイと呼ばれる小国がたくさんあったと考えられています。

スールー王国ほか

 フィリピン南部のミンダナオ島は、ボルネオ島北部を統治していたブルネイ王国(今のブルネイ・ダルサラーム王国より大きかった)の影響を受けていました。14世紀東南アジア海域にイスラム教が広まると、フィリピン南部にもこれが伝わります。ミンダナオ島(現在バナナでの生産で有名なフィリピン南部の島)のマギンダナオ王国や、スールー諸島(ミンダナオ島とボルネオ島の間にある島々)のスールー王国が強国化していきました。イスラムはそのままフィリピンの北部にも伝わり、16世紀までにはルソン島のマニラにも小さいながら、イスラム系の王国が出現しました。

大航海時代

と、ここまで何の気なしにこれらの島々を「フィリピン」と書いてきましたが、16世紀初頭当時はまだ誰も「フィリピン」などという呼び方はしていません。この国名の名付け親は、実はスペイン人です。それには大航海時代が大きく関係していました。

 15世紀のポルトガルで始まった大航海時代。16世紀初頭にはポルトガル人がアフリカ、インドを経由し、現在のマレーシアまでやって来ました。対するスペイン人は、当時ヨーロッパ人に知られて間もないアメリカ大陸の最南端を抜け、太平洋の横断に成功しました。かの有名なマゼランの一団です。そして長い航海の末に1521年上陸したのが現在のフィリピンでした。しかし彼は現地の王ラプラプやその住民と衝突し、この地で命を落としてしまいます。マゼランの部下が史上初の世界一周を成し遂げ、スペインに還ったのは、翌1522年のことでした。

マゼラン上陸も…

この探検によってスペイン人の知る所となった太平洋の島々には、その後も多くのスペイン人が来訪。そして16世紀半ば、彼らは当時のスペイン王の息子フェリペ王子(後のフェリペ2世国王にちなみ、この島々を「フェリペナス諸島」と名付けたのでした。

スペインの植民地に

 スペイン人はフィリピンをスペインにおけるアジア貿易の拠点と位置付け、1571年マニラに総督府を置きました。これと前後して現地の王たちをそそのかし、スペイン人に有利な協定を結んで植民地化を進めていきます。また、同じ頃の日本に対しておこなったのと同様に、現地の人々にカトリックを布教していきました。

 

 スペイン人は同じ16世紀、アメリカ大陸のメキシコを中心とした地域に、フィリピンよりもはるかに巨大な植民地を築きました。そして、スペイン本国~メキシコ~フィリピン~中国(当時は王朝)という貿易ルートをつくり、絹や陶磁器といった中国の名産品を盛んに買い入れていきます。前述のようにフィリピンは、昔から中国と貿易していたのですが、それが太平洋の向こうにまで拡大されたかっこうです。この時の航海に用いられたのが、ガレオン船(海賊船と言われてイメージするあの帆船)だったので、この貿易もガレオン貿易と呼ばれます。

ガレオン貿易

 ガレオン貿易が盛んになったことで、スペイン人以上に、多くの中国人もフィリピンに移住。現地の人々との混血もおこりました。17世紀には(鎖国までの短い間だったものの)日本人も東南アジアに進出し、フィリピンにも日本人町がつくられました。

 

 この頃にはイエズス会ドミニコ会をはじめとするカトリックの修道会がフィリピンにも広く浸透し、地方の統治にもたずさわっていきます。しかしヨーロッパのカトリックでさえ腐敗が深刻化していた当時、そこから遠く離れたフィリピンの組織が腐敗しなわけがなく、多くの現地住民から土地や財産を奪っていったといいます。

 

 こうした支配に対し、反スペイン、反カトリックをかかげた反乱も頻発しましたが、カトリックは次第にフィリピン社会に根を下ろし、人々の生活の一部となっていきます。それとともにフィリピンの伝統的な風習と混ざり合い、ヨーロッパのそれとは異なる独自の色を見せるようになりました。フォークソングならぬ、フォークカトリシズムと呼ばれています。18世紀になると現地人向けの神学校がつくられ、次第に先住フィリピン人の聖職者(修道会に入れなかったため、在俗司祭と呼ばれる)も増えていきました。

 

 一方、イスラム教が広がっていたフィリピン南部のスールー王国、マギンダナオ王国は、現在のマレーシアやインドネシアにあたる国々との交易で繁栄しましたが、北からジワジワ迫ってきたスペイン人の勢力には時として激しく抵抗。モロ戦争と呼ばれる両者の争いは、20世紀まで断続的に数百年続きました。

改革と自立

 18世紀後半、本国スペインでブルボン改革が始まると、その波は植民地フィリピンにも伝わります。それまでスペインにとって貿易の経由地という性格が強かったフィリピンですが、この頃からタバコなどの商品作物(外に売るための作物)を栽培、輸出する、いわゆるプランテーションが本格化していきました。同時にスペイン人が独占していたマニラの港を、イギリス人やアメリカ人にも開放して、貿易を促進します。1815年にはスペイン王室が運営していたガレオン貿易も廃止されました。

 

 先の在俗司祭修道会に代わり地方行政を担うことが増えていきます。修道会が力を持ちすぎるのを、国王や植民地政府が嫌がったからです。しかし、1820年代に同じくスペイン領だったメキシコやペルーなどが独立すると、また風向きが変わりました。スペインにとってはこれ以上植民地に独立されては当然困る。そのためフィリピン人のこうした動きは19世紀半ば以降、弾圧されるようになります。植民地政府の重役には、スペイン本国から派遣された人々(通称ペニンスラール:半島の人という意味)が就任し、フィリピン人や現地生まれのスペイン人の不満を招きました。

フィリピン革命と新たな支配者

 この頃までにフィリピン人の在俗司祭たちは、西洋の思想や教養を身に着けた知識人となっていました。彼らの中には、本国出身のペニンスラールが強い権限を持ってフィリピン人を虐げている!と抗議する活動をする人も少なくありませんでした。かくして民族主義運動が始まります。この運動にはフォークカトリシズムや、『パション』とよばれるキリストの物語といった、フィリピンで生まれた文化が大きな支えとなります。

 

こうした中の1872年、ルソン島で強制労働に反発する暴動が発生。これを鎮圧した政府は、ゴメス、ブルゴス、サモラという3人のフィリピン人神父が暴動を引き起こしたと断じ、3人を処刑してしまいます。この事件は3人の名をとって、ゴンブルサ事件と呼ばれていますが、3人はいずれも民族主義運動のリーダーであり、当局から目をつけられていたのです。植民地政府は、これで民族主義を抑え込んだつもりでしたが、かえってフィリピン人の反感は強まっていきました。

 

 1887年『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』という本がヨーロッパで出版されます。これは、フィリピン出身の留学生ホセ・リサールが書いた小説で、その内容はフィリピンに居座る修道会の腐敗を痛烈に批判したものでした。1892年帰国したリサールは政治団体を結成し、スペインからの独立を訴えるようになります。この結果、彼は植民地政府に逮捕されますが、フィリピン内の民族主義は高まり、同1892年武装組織カティプナンが作られます。1896年カティプナンは、東南アジアで最初の本格的な独立戦争、フィリピン革命を開始しました。多くの在俗司祭もこれを支援します。しかしリサールは政府に危険視され、間もなく処刑されてしまいました。

 

 苦しい独立戦争のさなか、意外な味方が出現します。アメリカ合衆国です。アメリカはカリブ海へ進出するために、同じくスペインからの独立運動を展開していたキューバを支援。1898年スペインに宣戦布告して米西戦争が勃発しました。この結果スペインは敗北。キューバをはじめ多くの植民地をアメリカに譲ることになりました。その中にはフィリピンも含まれていました。

フィリピン革命

この頃カティプナンのリーダーとなっていたアギナルドは、亡命先の香港に来ていたアメリカ軍に支援を求めました。これに応じたアメリカ軍は、自国の艦隊で彼をフィリピンに送り届けます。アギナルドは1899年スペインによる支配が終わり、自分たちの国、自分達の政府を作ることを宣言しました。ところが、ここでアメリカ政府が本性を現し、アギナルドの作った政府を押しつぶしてしまいます(米比戦争)。この結果、スペインに代わってアメリカが新たな支配者となりました。

アメリカと第二次世界大戦

 当然ながら、アメリカの支配を嫌がる人々の抵抗は激しいものでした。アメリカ式の民主主義が導入され、1907年総選挙も行われますが、その結果は「すぐに独立させろ!」と訴える党が勝利しました。この声を受けて、1916年ジョーンズ法が制定されます。これにより将来的な独立を一応は約束されました。経済面では、アメリカの工業製品が輸入されたため、相変わらず現地の経済は農業(サトウキビやマニラ麻)が中心でした。ただその一部は、アメリカの企業と手を結び、富を蓄える大地主となっていきます。

 

 1934年アメリカ政府はタイディングス・マクダフィー法を制定し、フィリピンを1946年に独立させることを決定。その準備がケソン大統領の元で整備されます。しかしフィリピンではこれでも遅すぎると、即時独立を求める声も上がります。一方、フィリピンの大地主の中にはアメリカべったりの人も少なくなく、フィリピン独立に消極的な人もいました。フィリピン人も一枚岩ではなかったのです。

 

 独立準備が進む中、東アジアでは1937年日中戦争が始まり、距離の近いフィリピンにも緊張が走ります。アメリカ政府はフィリピン防衛のため軍事力を増強しますが、その時送りこまれたのがマッカーサーでした。不安は現実のものとなります。1941年日本軍は真珠湾を攻撃し、戦火が太平洋へ拡大。同時に日本はアメリカ領フィリピンにも侵攻しました。年明けの1942年フィリピンは降伏し、ケソン大統領もマッカーサーもこの地を離れました。日本軍はアメリカ人やフィリピン人の捕虜に「死の行軍」と呼ばれる過酷な仕打ちをしています。

 1943年日本軍の支持するラウレル大統領が就任し、フィリピンの独立が実現します。しかし日本による支配は変わらず、独立は形だけのものでした。戦争のためにフィリピン人は日本人に酷使され、皇民化教育などを強要されました。しかもアメリカとの貿易が断たれてしまったため、物不足に陥り、治安も悪化していきます。この間フィリピン共産党を中心に武装集団フク団が組織され、日本軍にゲリラ戦で抵抗しました。

 1944年、体勢を立て直したアメリカ軍がフィリピンに再上陸し、1945年にマニラを奪還します。日本軍はフィリピンを去り、間もなく戦争は終わりました。この大戦で、フィリピンだけでも百万単位の犠牲者が出たとされます。

独立後も…

 1946年アメリカは約束どおりフィリピンの独立を認めました。しかしこれは、インドネシアなどと異なり、フィリピン人が獲得したというよりもアメリカから“与えられた”独立という面が強く、政治面、経済面でアメリカの影響はなおも残ります。資本主義VS共産主義の対立(冷戦)が始まると、フィリピンはいわゆる「反共の砦」として、朝鮮戦争などにアメリカ陣営に参加させられ、一方でかつて日本軍と戦ったフク団は、共産主義者として弾圧されました。

 

 1965年大統領となったのがフェルディナンド・マルコスです。彼はアメリカ政府や企業とのベッタリ関係により権力を集中させ、独裁者となっていきました。一方ベトナム戦争がアメリカの参戦で大規模化したのもちょうどこの時期で、それに対する反対運動と結びつき、親米独裁のマルコス政権を批判する声はエスカレートしてきます。ジャーナリストのベニグニ・アキノはその代表的な人物でした。

 

 マルコスは1972年に戒厳令を敷いて反政府運動を弾圧します。その一方でコメの品種改良を進めて増産を成功させました。いわゆる緑の革命です。フィリピンは1967年に発足したASEANの原加盟国でもあり、シンガポールインドネシアタイなどとの経済的な結びつきも強化されました。一連の改革でフィリピン経済は成長し、人口も増加していきます。

民主化成功?

 1981年マルコスは戒厳令を解除しました。死刑判決を受け、海外へ亡命していたベニグニ・アキノも1983年帰国します。が、マルコスは彼を許さなかったのでしょう。空港に着いた途端、アキノは銃撃され、命を落としてしまいました。しかしこの事はかえって反政府運動を加速させ、独裁者を追い詰めることになります。ベニグニの妻コラソン・アキノが夫の遺志を継いで民主化のリーダーとなり、1986年ついにマルコスを退任に追い込みました。大衆によって民主化を実現させたこの退陣劇は、ピープルパワー革命とも呼ばれています。

ピープルパワー革命

 大統領となったアキノは新憲法を制定し、マルコス時代が終わったことをアピールします。しかし、独裁者打倒という共通の目標が達成されると、いままで団結していた人々はたちまち分裂してしまい、政局は混乱していきました。

 

 外交面ではASEANの発足以降、東南アジアや日本など東アジア諸国との関係を強化していますが、依然アメリカの影響力は残っています。近年は中国もこの地に進出し、南シナ海をめぐった問題も生じてきました。社会面では、2017年に人口1億人を突破し、なおも増え続けていますが、貧富の差は大きく、貧困者の生活をいかに底上げするからが課題となっています。また、フィリピン南部では、スールー王国以来のイスラム系住民が少数民族として住んでおり、カトリック教徒の多数派住人としばしば衝突しています。

 

 民主化後も大統領の権力はまだまだ強く、これが元で汚職も深刻な状況にあります。2016年大統領となったドゥテルテは、汚職撲滅、治安回復のために強権を用いて、犯罪者の一斉逮捕などを断行。こうしたやり方が、またフィリピンが独裁体制に戻ってしまうのではないかという不安を引き起こしました。そんな中2022年大統領に選ばれたのが、独裁者マルコスの息子、通称ボンボン・マルコスです。はたしてフィリピンの未来はいかに?

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