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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

紀元前3世紀~2世紀 ~東アジア・南アジア・ヨーロッパの原風景~

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この時代、ローマが地中海一帯に範囲を広げ、マウリヤ朝と秦がそれぞれインドと中国を統一。地中海世界、ヒンドゥー世界、中華世界といった巨大な文化圏の「いしずえ」がつくられました。逆に西アジアは政治的に分裂しましたが、これらの国を通じてヘレニズム思想が東へ東へと浸透していくことになります。

 

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ローマvsカルタゴ

 イタリア半島の一都市国家に過ぎなかったローマですが、BC272年には半島南部のタラントを征服し、イタリア半島の大部分を支配域に組み込むことに成功しました。ローマはその先、つまり地中海へと目を向けますが、そこには当時地中海を支配していた大国が「待った!」をかけます。

 

 イタリアから見て対岸の北アフリカ、現在のチュニジアには、数百年にわたって地中海交易を握っていたフェニキア人の国カルタゴがありました。そしてイタリア半島と北アフリカの間に浮かぶシチリア島は、拡大するローマを恐れ、カルタゴと同盟を結びました。かくしてローマとカルタゴの間にポエニ戦争が始まります。「ポエニ」とは「フェニキア」の意味です。

 

 3度にわたるポエニ戦争のうち、最も激しい戦いとなった第2次ポエニ戦争(BC218年~202年)では、カルタゴの猛将ハンニバルが、戦闘用の象にアルプスを超えさせるという奇想天外な作戦を敢行。ローマをあと一歩まで追い詰めますが、ローマの将軍スキピオらの反撃もあり、最終的に敗れます。ローマはこの勝利によりイベリア半島の地中海側を手に入れ、後にヒスパニア属州が置かれました。後のスペインです。

 

 ポエニ戦争の最中、ローマ軍はシチリア島にも侵攻。この島にはシラクサというギリシャ人の町があり、そこで暮らしていたのが、科学者アルキメデスでした。浮力の原理を発見したことで知られるこの人物は、ローマの侵攻に科学兵器を持って抵抗したともいわれています。ローマもこの天才学者の命は助ける予定でしたが、結局アルキメデスは侵攻してきたローマ兵に殺害されてしまい、シラクサもBC212年征服されてしまいました。

アルキメデス

 

 第2次ポエニ戦争の敗北で、カルタゴは多額の賠償金を課せられました。しかし、地中海交易が生み出す富の量はすさまじく、カルタゴはローマが思っていたよりもはるかに早く賠償金を支払い、町も復興していました。これは後々危険と判断したのか、それとも溢れる富に目がくらんだのか、ローマは第3次ポエニ戦争を起こし、カルタゴの町を徹底的に破壊。こうしてBC9世紀頃から繁栄を続けていたこの都市国家はBC146年に滅び、この地はローマのアフリカ属州となりました。この時付けられた「アフリカ」の名が、やがてこの大陸全体を指す名称となります。

※「アフリカ」とはフェニキア語で「植民」という意味で、フェニキア人が故郷を離れてカルタゴの地に植民したことから、その名が付いたとも(諸説あり)

ローマに征服された国、地域

マケドニア、ギリシャ

 第2次ポエニ戦争の最中、ローマは、ハンニバルと密かに手を結んでいたアンティゴノス朝マケドニア王国とも戦います。かつてアレクサンドロス大王によって大帝国となっていたマケドニアは、大王の死後家臣によって分割され、今ではバルカン半島とギリシャ地方を占める小国となっていました。ローマとマケドニアは3度にわたって戦い(マケドニア戦争)、BC168年マケドニアの滅亡をもって終結しました。

 マケドニアに支配されていたギリシャのポリスたちも、BC3世紀にアカイア同盟アイトリア同盟などを結成して、マケドニアから自立していましたが、BC2世紀半ばローマに屈します。

 

アフリカ北西部(現アルジェリア・モロッコ)

 カルタゴより西側、現在のアルジェリア沿岸部からモロッコにかけての地域には、ベルベル人と呼ばれる人々が住んでいました。BC3世紀頃、このベルベル人が築いたのが、ヌミディア王国マウレタニア王国です。

 第2次ポエニ戦争が起こると、ヌミディア内ではローマ側、カルタゴ側それぞれに付く者が出現、結局はローマ側に付いたマシニッサがカルタゴ軍を破ってローマ勝利に貢献し、戦後ヌミディア王となります。

 しかしマシニッサの次の王の時代になると、彼の孫であるユグルタが実権を掌握し、後継者争いが発生します。これにローマも介入し、BC111年ユグルタ戦争が起こりました。激戦の末、ローマはBC105年に何とかユグルタ軍に勝利しましたが、この時ローマに協力したのが、ヌミディアの隣国マウレタニア王国です。ユグルタ戦争後、ヌミディアの支配域は両国によって分割されました。

 

アナトリア地方(現トルコ)

 アレクサンドロス大王の没後、アナトリア高原は後述するセレウコス朝シリア王国の統治下にありましたが、その力は弱く、BC3世紀からペルガモン、ガリティア、ビテュニア、カッパドキア、ポントゥスといった国が次々と自立していきました。

 アナトリア西部のペルガモン王国は、ギリシャとアジアの思想文化に影響を受けた、いわゆるヘレニズム文化の担い手として繁栄。BC2世紀初頭には、王都に大規模な図書館を建造させました。しかし最後の王が国をローマに与えると遺言に書いたため、BC133年ペルガモン王国はローマに併合されてしまいました。

ローマ内部

 ここで、ローマ自身の様子を見てみると、貴族に対する平民の闘いが最終段階を迎えます。BC287年ホルテンシウス法が制定され、平民の議会(平民会)で決められたことが、貴族の議会(元老院)に反対されても法律や制度として認められることとなります。

 しかし今度は貧富の格差が問題となります。ポエニ戦争やマケドニア戦争によって支配地域は拡大し、そこから多くの産物や奴隷がもたらされましたが、支配地から入って来た農作物が安かったこともあり、イタリア半島に住んでいた農民の作ったものが売れなくなります。

 

 加えて農民たちは戦争にも駆り出され、農地は戦場となり、農村は荒れ果ててしまいます。こうした土地を、貴族や時代の波に上手く乗った金持ちの平民が買い取り、奴隷を使ってオリーブやブドウを作らせ、これを売って大儲けしました。こうした経営をラティフンディウムといいます。かくして、ローマには大地主と土地無しの無産市民が同時に出現することとなります。

 現状を憂いた政治家ティベリウス・グラックスと、ガイウス・グラックスの兄弟は、BC133年から持てる土地の上限を決め、格差の解消に努めました。しかし保守派の反対にあい、2人は若くして落命。以後、改革派と保守派による主導権争いが100年近く続くことになります(内乱の一世紀)。

シリア・パレスティナ地方(現シリア、レバノン、イスラエルなど)

長々とローマ帝国について語って来ましたが、ここで目を東の方へ向けましょう。

 BC4世紀にアレクサンドロス大王の築き上げた大帝国。マケドニアの項でも触れましたが、大王の没後、それを誰が治めるかで争いが起こり、結果BC3世紀までに3つの王国に分裂しました。この内、西アジア一帯を治めたのがセレウコス朝シリア王国です。

 しかし、国王の権限は基本弱く、次第に中心部(シリア地方)から遠い地域はその支配から離れていきます。今のイラン、イラクに当たる地域からパルティア王国が、アフガニスタンの一角、バクトリア地方からも、グレコ・バクトリア王国が自立しました。

 セレウコス朝は、BC2世紀初頭アンティオコス3世の時代に上の両国を服属させ、更にパレスティナをエジプトから奪うなどして繁栄を取り戻します。シルクロードを経由した交易も盛んになり、ペトラ(現ヨルダン)などの都市国家も発展しました。ギリシャ文化も各地に広まります。しかしその没後は、下降線の一途をたどりました。

 

 しかし、パレスティナに住んでいたユダヤ人は、セレウコス朝による圧政や、ギリシャ風の思想や宗教が入ってくることに耐えられず、BC167年反乱を起こしました。このマカベア戦争により、パレスティナは半独立の地位を獲得、BC140年頃ハスモン朝が成立しました。

エジプト・アラビア半島

 アンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリアと並び、エジプトではプトレマイオス朝が開かれます。エジプトはパレスティナを巡ってセレウコス朝と争い(シリア戦争)、結局この地を手放しますが、BC3世紀半ば、プトレマイオス3世の時代には、北アフリカのキュレネ(現リビア北部)や銅の産出で名高いキプロス島などを手にし、何よりナイル川の恵みによる農作物の一大生産地としての繁栄は約束されていました。

 アレキサンドリアには学問の研究所ムセイオン(ミュージアムの語源)が設置され、数学者ユークリッドや天文学者エラトステネス、科学者アルキメデスらが研究にいそしんだと言われています。ただ、プトレマイオス朝の君主はギリシャ、マケドニア系の人々で、長年ファラオを崇めていた現地のエジプト人はこれを不満に思っていました。そのため時と共に国王もエジプト伝統の儀式などを重んじるようになります。

 BC2世紀になると、ポエニ戦争に勝ったローマが進出。この頃王室は醜い権力争いで疲弊し、キュレネやキプロスも離反。その後エジプトの王はローマと手を結ぶ事で生き延びる道を選びました。

 

 一方でエジプトはこのBC2世紀頃から紅海を経由する交易ルートの開拓を積極的に進めました。この中で紅海に面したアラビア半島西岸もその経済圏に組み込まれました。半島南西部(現イエメン)には、サバ、カタバーン、ハドラマウトという3つの王国がありましたが、BC2世紀カタバーン王国から自立したヒムヤル王国がこの流れに乗り、急速に国力をつけていきます。

コーカサス地方

現在アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャンが位置するコーカサス地方もまた、アレクサンドロス大王の没後、自立していきます。現ジョージアにはコルキス王国イベリア王国が、現アゼルバイジャンにはアルバニア王国が建てられました(紛らわしいですが、現在のイベリア半島やアルバニアとは無関係です)。

 現在のアルメニアにはそのままアルメニア王国が自立し、現トルコ東端のヴァン湖周辺などを含む、コーカサス地方では最も大きい国の一つとなりました。

イラン・イラク

 前述のようにBC4世紀のアレクサンドロス大王の遠征後、現在のイランやアフガニスタンはセレウコス朝シリア王国の一部となります。このギリシャ系王朝の元、ヘレニズムの思想や文化が遠く離れたこの地にも伝わりました。例えばイラン地方の伝統的な宗教、ゾロアスター教では、最高神としてアフラ・マズダという神が祀られていましたが、この神とギリシャ神話の神ゼウスが、同じ存在のように扱われる、といったことも起きています。

 時が進むと共に、セレウコス朝の支配力は弱まり、次第に地方が自立。BC238年、イラン北東部にいた遊牧民のパルティア人が独立し、そのリーダーだったアルサケスが即位してパルティア王国が開かれます。

 パルティア王国はBC2世紀を通じて拡大し、メソポタミア(現在のイラク、バグダッドの近く)に王都クテシフォンを置きました。以後パルティア王国はセレウコス朝やこれを滅ぼしたローマ帝国と勢力争いを続けつつ、500年近く続きました。一方で当時作られた像などにギリシャの特徴が見られるなど、その文化的な影響は残りました。

中央アジア

 イランより更にセレウコス朝から遠く離れていたバクトリア地方(現在のアフガニスタン北部から中央アジアにかけての地域)は、パルティアよりも早く独自の王国を自立させました。その担い手が、アレクサンドロス大王の遠征の際にやって来たギリシャ人の移住者だったことから、グレコ・バクトリア王国と呼ばれます(グレコ:ギリシャが訛ったもの)。

 BC2世紀半ばまでにグレコ・バクトリア王国はインド北西部にまで範囲を拡大しますが、その後は分裂、中央アジアに住んでいた遊牧民によってBC2世紀後半に消滅します。残ったインド北西部側の王国(インド・ギリシャ王朝)も、別の遊牧民サカ族の侵入で打撃を受け、やがてインド人社会に吸収されていきました。インド・ギリシャ王朝の王としては、インドの仏僧と議論を交わしたメナンドロス王が良く知られています。

 グレコ・バクトリア王国の滅亡後、東からは別の遊牧民がやって来てこの地を支配します。彼らは中国の歴史書に「大月氏だいげっし」として記録されています。

南アジア

 BC3世紀当時北インドを統治していたのがマウリヤ朝でした。そのマウリヤ朝で、BC268年に即位したアショーカ王は、インド南部への遠征を行います。この結果インド亜大陸の大部分を征服することに成功し、王朝は空前の規模にまで拡大しました。しかしその途中、東部のカリンガ地方を征服した時に、双方に多大な犠牲者が出て、アショーカ王は悔やみました。

 征服活動を終えたアショーカ王は、仏教が説く慈悲の教えに触れ、道路などのインフラ設備の建設、病院の設置など、人々のための政治を志すようになります。これを古代インドのサンスクリット語で「ダルマ」(保つべきものという意味、「法」と訳されることが多い)といいます。要は武力にモノを言わせる政治をアショーカはやめたということです。(ちなみにこのダルマの名前でそのまま呼ばれた6世紀の中国の僧侶(達磨大師)が、日本でも有名な人形(?)ダルマのモデルです)

 仏教はこの時代、セイロン島(スリランカ)にも伝わりました。言い伝えでは、アショーカの息子であるマヒンダ王子が出家してこの島へやって来たとされます。現在スリランカでは、仏教がインド以上に熱心に信仰されています。

マヒンダ

スリジャヤワルダナプラコッテの意味とは? The meaning of Sri Jayawardenepura Kotte より

 

 社会福祉を充実させるダルマ政治はしかし、現在と同様に出費がかさむものでした。一方で軍事力は低下し、アショーカ王没後のマウリヤ朝を弱体化させる要因となりました。BC180年頃マウリヤの王家は家臣のシュンガ家に乗っ取られて滅亡。大帝国も崩壊し、地方政権が分立していきました。上記のようにグレコ・バクトリア王国がインドに進出できたのも、こうした背景があったわけです。

 一方、インド南部のデカン高原にはサータヴァーハナ朝が出現し、マウリヤ朝の崩壊と共にこの地方の覇者となります。

中国

 この頃中国は、かんちょうえんせいしんといった国が互いに争う戦国時代が最終局面を迎えていました。諸子百家による活動はBC3世紀に入っても続いており、儒家では孟子もうしが、道家では荘子そうしがそれぞれ活躍しました。しかしこの中で最も勢いがあったのは、法家の教えを重んじた秦でした。

 

 しゅう(東周)王朝は力を失いながらも続いていましたが、BC256年によってついにその息の根を止められてしまいます。更にBC247年即位した秦の王せいにより、ライバル国は次々と滅ぼされます。BC221年最後の斉が滅び、中国は史上初めて秦王朝のもとに統一されました。その偉業から、秦王の政は自らを王よりも上の存在とし、中国の伝説の君主の称号である「帝」と「皇」の時を用いて「皇帝」としました。彼は皇帝を名乗った最初の人物として後の時代「始皇帝しこうてい」と呼ばれます。

 

 始皇帝は国を統一するにあたり、文字(漢字)や度量衡(物を測る単位)、更には車輪の幅(交通の便を良くするため)も統一していきます。更に地方に関しては、現地人に任せず中央から役人を派遣する郡県制を敷き、支配を強めました。政治制度にはそのまま法家の考え、つまり法律が重んじられ、儒家などの思想は弾圧されました(焚書坑儒)。

始皇帝の働き

 しかしその厳しすぎる法に人々の不満は高まり、始皇帝が死去して間もなくのBC209年陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱が起こります。この反乱に心を動かされた地方の有力者に項羽こうう劉邦りゅうほうがいました。BC206年項羽が秦最後の皇帝を殺害し、秦はあっけなく崩壊しました。項羽に武功を譲った劉邦は、新たにかん王朝を開き、最終的に項羽を倒して、中国を再統一します。ちなみに項羽は楚の出身で、劉邦軍が彼を取り囲んで楚の歌を歌わせて戦意を喪失させたエピソードから、四面楚歌しめんそかの四字熟語が生まれました。

 

 漢の皇帝に即位した劉邦(高祖こうそ)は、当初地方の自治権を一つの国レベルに拡大し、中央には従来の郡県制を敷く、郡国制をもって社会を安定化させます。しかし彼の子孫、景帝けいていの時代には、皇帝を含む中央に力集中させる郡県制を復活させようとしました。これに地方の有力者が反発し、BC154年呉楚七国ごそしちこくの乱が起こりますが、鎮圧されました。

 景帝を継いでBC141年即位した武帝ぶていは更に中央への権力集中を進めると共に、現在の朝鮮半島やベトナム、新疆ウイグルにも支配域を拡大していきました(後述)。司馬遷しばせんが中国最初の本格的な歴史書『史記』を書いたのも武帝の時代です。

 大国を治めるためには優秀な官僚が必要となります。その為に地方から推薦された有能な人材が集められました(郷挙里選)。また人材を育成する為に重んじられたのが、秦では弾圧されていた儒家の教えでした。董仲舒とうちゅうじょら優れた学者によってこの思想が政治に組み込まれ、その後中国を支える思想となっていきます。いわゆる儒教です。

 中国周辺

 秦による統一以降、中国の王朝は長らく東アジアの大国であり続けますが、決して無敵だったわけではありません。現在のモンゴルには、古くより遊牧民が暮らしており、度々中国の農民を襲って、モノや人を奪っていました。遊牧民の侵入を防ぐために、防御壁が建設されますが、各国で造られていた壁を始皇帝は繋げることにします。この結果生まれたのが、万里の長城の原型でした。漢の時代になると、遊牧民の一派である匈奴きょうどが、カリスマリーダーの冒頓単于ぼくとつぜんうによって統一され、劉邦もこの騎馬集団に悩まされました。匈奴は他の遊牧民も攻撃。その一派、月氏はこの時西に追われ、中央アジアの項で話した「大月氏」と呼ばれるようになります。

 

 しかし武帝の時代になると、衛青えいせい霍去病かくきょへいなどの軍人がモンゴルへ派遣され、匈奴を討ち破ります。更に張騫ちょうけん大月氏だいげっしに派遣し、匈奴を挟み撃ちにする策も講じました。これは成功しなかったものの、中央アジアや様子が漢に伝わり、後に西域(現在の新疆ウイグル)も漢に支配されました。こうして中央アジアや西アジアとの往来が盛んになり、これがシルクロードの形成へとつながっていきます。

 

 ベトナムではBC3世紀頃、現在のハノイ周辺から中国南部の一部にかけて王国が成立。この国は南越なんえつと呼ばれており、現在のベトナム(漢字だと越南)の国名とも深い関わりがあります。朝鮮半島ではBC195年、戦国の七雄の一つ燕から逃れてきた衛満ウィマンという人物がやって来ます。彼の建てた朝鮮(古朝鮮こちょうせん衛氏朝鮮えいしちょうせん)は、朝鮮史で実在が確実視されている最初の王朝となります。

 

 しかし、漢が拡大した武帝の時代、南越国も古朝鮮もこの大国に征服されました。そして前者には交趾郡こうしぐん、後者には楽浪郡らくろうぐんといった中国の郡が置かれ、直接的な支配下に置かれました。とはいえその力には限界があり、朝鮮半島では、漢の支配に反発した人々によってBC2世紀末(あるいはBC1世紀初頭?)頃、新たな王国が築かれました。これが高句麗こうくり/ゴグリョです。

 

 大陸の人々は日本列島にも進出し、彼らと共に稲作や金属などの技術が伝わりました。農業が生活の中心となった事で、土器などのライフスタイルも変化。こうして日本でも縄文時代から弥生時代へと移っていきます。その始まりの時期には諸説ありますが、遅くともBC3世紀には九州から関東にまでに弥生文化が浸透したようです。人口も増加していき、各地に集落が出現。これが成長して国へと発展していくことになります。

主な出来事

BC287 ホルテンシウス法(ローマ)

BC272 ローマ、タラント征服(イタリア)

BC268 アショーカ王即位(インド)

BC264 第一次ポエニ戦争~241(南ヨーロッパ・北アフリカ)

BC262 ペルガモン王国独立(アナトリア)

BC260 マウリヤ朝カリンガ征服(インド)

BC256 東周滅亡(中国)

    セイロン島に仏教伝わる(スリランカ)

BC250頃 グレコ・バクトリア王国独立(中央アジア)

BC248 アルサケス朝パルティア王国独立  (イラン・イラク)

BC221 秦王政(始皇帝)、中国統一

BC218 第二次ポエニ戦争~201(南ヨーロッパ・北アフリカ)

BC216 カンネーの戦い(イタリア)

BC215 第一次マケドニア戦争~205(東ヨーロッパ)

BC209 冒頓単于即位、匈奴統一(モンゴル高原)

    陳勝呉広の乱(中国)

BC206 秦滅亡(中国)

BC205 エラーラ王アヌラーダプラに侵攻(スリランカ)

BC202 ザマの戦い(北アフリカ)

    劉邦、漢を興す(中国)

BC200 第二次マケドニア戦争~197(東ヨーロッパ)

BC195頃 衛満、朝鮮建国(朝鮮半島)

BC192 スパルタ、アカイア同盟参加(ギリシャ)

    ローマ、トラキア征服(東ヨーロッパ)

BC180 シュンガ朝、マウリヤ朝を滅ぼす(インド)

BC171 第三次マケドニア戦争~168(東ヨーロッパ)

BC168 アンティゴノス朝滅亡(東ヨーロッパ)

BC167 マカベア戦争

BC161 ドゥッダガーマニー、エラーラ王撃退(スリランカ)

BC154 呉楚七国の乱(中国)

BC2c中 グレコ・バクトリア王国崩壊(中央アジア)

BC149 第三次ポエニ戦争開始~146(南ヨーロッパ・北アフリカ)

BC146 カルタゴ滅亡(北アフリカ)

    アカイア同盟、ローマに敗北

BC141 武帝即位(中国)

BC142 ハスモン朝パレスティナに成立(西アジア)

BC139 張騫、中央アジアの大月氏に向けて出発(中国)

BC133 グラックス兄弟の改革始まる(ローマ)

    ペルガモン併合される(アナトリア)

BC129 衛青、匈奴撃破(中国)

BC111 ユグルタ戦争開始(北アフリカ)

    南越国滅亡(ベトナム)

BC108 漢、衛氏朝鮮滅ぼす(朝鮮半島)

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