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現在、初期記事のリニューアルと英語訳の付け加え作業をゆっくりおこなっています。

紀元前10世紀~紀元前7世紀 広がる鉄、築かれたポリス

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今回は紀元前10世紀から紀元前7世紀(BC1000年~601年)の400年間について見ていきます。

<西アジア>

イスラエル

西アジアでBC1200年頃から始まった民族大移動によって、この地に住む人々の入れ替わりが生じました。ヒッタイトカッシートといった国は崩壊し、フェニキア人、アラム人、ユダヤ人といった人々が新たな国を造ります。

 

旧約聖書によると、パレスティナには既に多くのユダヤ人が暮らしていましたが、これをまとめ上げたのが、BC1000年頃即位したダヴィデ王だとされます。彼の築いた王国は、イスラエル王国あるいはヘブライ王国と呼ばれています。ダヴィデは先住民ペリシテ人(この民族名がパレスティナの語源)との戦いにも勝利し、イスラエルの南部に新しい王都を築きました。エルサレムです。

 

BC960年頃死去したダヴィデを継いだのが、これまた名君と称されるソロモン王でした。ソロモンはエジプトやフェニキア人と盛んに交易して経済力をつけ、ヘブライ王国を大国化させます。宗教面ではユダヤ人の信じる一神教ヤハウェの神殿(第一神殿)を建設しました。しかし周囲との戦争が相次ぎ、軍事を増強したことが民への重税と反乱を招きました。BC922年頃ソロモンが没すると、反乱を起こして地方に逃げていた元部下ヤラベアムが、ソロモンの後継者レハブアムとは別に王を名乗ります。こうして王国は北部イスラエル王国南部ユダ王国分裂しました。

 

イエメン

アラビア半島南部、現在のイエメンにも、BC8世紀頃からアラブ人の王国が形作られたと考えられています。サバ王国、カタバーン王国、ハドラマウト王国などです。イエメンは乾燥したアラビア半島の中でも比較的雨が多く、人口密度も高い傾向にありました。それゆえ王国の成立も早かったとされます。サバ王国はBC7世紀カリブイル王の元で周囲を征服し、イエメン最大規模の王国となっていきました。

 ちなみにソロモン王がイスラエルを統治していた時代(BC10世紀)には、イエメンに「シバの女王」と呼ばれる人物がおり、はるばるエルサレムまでやってきて、ソロモンと知恵比べした、という伝説が、アラビアに残っています。更にエチオピアでは2人の間に生まれた子どもがエチオピア初代国王だという伝承まであるとのことですが、女王が実在したのかも含めて、どこまでが史実なのか?シバという国がサバ王国を指しているのか?詳しいことは不明です。考古学的にも、BC10世紀に王国があった証拠はまだ見つかっていないようです。

ソロモン王

シリア

 アラム人は現在のシリア周辺に移住します。彼らは大規模な国を造ることはありませんでしたが、西アジア内の陸上交易で大いに活躍。彼らの言語であるアラム語は、この頃の西アジアで広く用いられました。現在のシリアの首都ダマスカスも、アラム人の本拠地としてこの頃から発展し始めた、歴史ある都市です。

 陸上で活躍したのがアラム人なら、海上で活躍したのはフェニキア人でした。現在のレバノンにあたる地域沿岸に居住していたフェニキア人は、シドン、ティルスといった都市を建設。地中海へ繰り出していきます。彼らは西アジアから遠く離れた北アフリカ、現在のチュニジアにBC814年、新たな拠点を築きます。これがカルタゴで、以後シドンなどに代わるフェニキア人の一大中心地となっていきました。

 

メソポタミア

 このBC9世紀には、西アジアに2つの大きな国が登場します。かつてメソポタミア北部で強大な勢力となっていたアッシリアと、現在のトルコ東部~アルメニアを中心としたウラルトゥ王国です。

 アッシリアではBC1200年以降、小国がひしめく混乱期が続いていました。BC9世紀初頭に即位したアッシュール・ナツィルパル2世はこの混乱を収拾し、更に周辺地域に進出してフェニキア人の都市国家などを服属させていきます。BC8世紀半ば、ティグラトピラセル3世の時代には拡大に拡大を続け、ついには、復興の遅れていたライバルのバビロニアをも征服。アッシリアは帝国と化していきました。

 ウラルトゥ王国はヴァン湖(現トルコ東部)周辺を拠点にコーカサス地方へと拡大。同じく拡大を続けていたアッシリアと必然的に何度も衝突しました。BC8世紀初頭、アルギシティ1世の時代に最盛期を迎えましたが、その後はアッシリアに敗れ、徐々に衰退していきます。

 BC722年アッシリア王となったサルゴン2世は、パレスティナに侵攻。内部分裂で弱体化していた北部イスラエル王国を滅ぼします。続くセンナケリブ王は南のユダ王国にも侵攻しますが、時のユダ王ヒゼキヤはこの猛攻を耐え抜き、最終的にアッシリアの属国としてですが存続を許されました。

 アッシリア帝国はBC7世紀半ば、アッシュール・バニパル王の時代に最盛期を迎えます。この王は、西隣の大国エジプトをBC年に征服し、東側では現在のイランに細々と残っていたエラム王国を事実上滅ぼします。こうしてアッシリア帝国は史上初めて西アジアからエジプトにかけてのオリエント地方を統一しました。アッシュールバニパルは首都ニネヴェに古今東西の書物(この頃は楔形文字を刻んだ粘土板)を集めた大図書館を建造させたことでも知られています。

ニネヴェの図書館

 しかし、アッシリアの他国支配は、基本的に武力によるもので、例えばバビロニアの中心地バビロンの制圧には何度も破壊と殺戮が行われました。また自国の宗教を他国にも押し付ける傾向もあり、人々の反感を常に買う状態でした。そのため名君アッシュール・バニパルが死去すると、間もなくバビロニア(新バビロニア王国)やエジプトはアッシリアの支配に反抗。現イランではメディア王国が、現トルコではリュディア王国が自立していきます。

 BC612年、バビロニア・メディア連合軍はアッシリアの都ニネヴェを破壊し、ここにアッシリア帝国は滅亡しました。以後オリエント地方は、メディア、リュディア、エジプト(サイス朝)、新バビロニアの4つの王国が覇権を争う場となっていきます。

エジプト・北アフリカ

 現在エジプトの南にはスーダンという国がありますが、この内、ナイル川(スーダンにも流れています)の川沿いには、ヌビア人と呼ばれる人々が暮らしていました。このヌビア人がBC10世紀頃にエジプト文明を真似て、独自の国を造ります。クシュ王国です。

 一方エジプトでは一時国内が分裂状態になったりして、ファラオの権威が下がっていました。BC730年頃、クシュのピアンキ王(またはピイ王)はエジプトに侵攻。テーベメンフィスを占領してしまいます。

 こうしてエジプトはついに外国勢力の支配下に置かれました。クシュ王国のヌビア人によって建てられた王朝は、第25王朝と呼ばれます。しかし、ヌビア人の天下も長くは続きませんでした。「西アジア」で書いた通り、当時メソポタミアではアッシリア帝国が拡大し、BC7世紀に入ると、エジプトにも軍を差し向けます。

 BC671年、第25王朝はアッシリアによって打倒され、エジプトもこの帝国の支配下に入ります。とはいえその期間は短く、10年程でエジプト第26王朝が開かれました。サイス朝と呼ばれます。アッシリア崩壊後、サイス朝はパレスティナ地方に支配域を拡大しますが、BC605年カルケミシュの戦いで、新バビロニアに敗北しました。

 

 北アフリカでは「西アジア」で触れたように、フェニキア人の都市国家カルタゴがBC9世紀、現在のチュニジア付近に建設されました。このカルタゴを拠点に、フェニキア人は地中海一帯に“なわばり”を広げ、大いに繁栄しました。しかしBC8世紀以降にはギリシャ人も地中海に進出。両者はライバルとなっていきます。

サハラ以南のアフリカ

 アフリカ人といっても、文化や言語は様々ですが、現在アフリカ大陸に最も広範囲に広がっているのが、バントゥー系(語族)と呼ばれる人々です。考古学によれば彼らは元々現在のカメルーンあたりに住んでいました。しかしBC1000年頃からカメルーン一帯が乾燥化すると、バントゥー系のご先祖様は、移動を開始。より住み良い場所を求めてアフリカ中に進出していきました。

 移住先にはピグミー人など先住民もいましたが、彼らは征服や追放の憂き目に遭い、人口も減っていきました(もちろん共存できた所も少なくありませんでしたが)。かくしてサハラ以南のアフリカはバントゥー系が最大勢力となっていきます。バントゥー系の人々がかくも拡大できたのは、すでに彼らが鉄器や農耕を知っており、人口や軍事面で有利だったからとも言われています。

ギリシャ

 BC1200年以降ミケーネ文明が衰退すると、メソポタミアとの交易は行われなくなり、人々は自給自足の農業生活に逆戻り。その中で線文字B(ミケーネ文明で使われていた文字)も使われなくなりました。しかし同時期にはがギリシャにも伝わりました。こちらは生活面でいえばどちらかと言うとプラス面の方が大きい出来事でした。

 BC8世紀になると、ギリシャ世界は新しい時代を迎えます。各地にポリスと呼ばれる都市国家が出現するのです。アテネ(アテナイ)、スパルタといった各ポリスは独立していたものの、同じ言葉、同じ宗教をもつこれらの住人の間には、「私たちは同族」という意識はあったようです。BC776年には、各ポリスが参加する大イベント、オリュンポス祭典も始まりました。オリンピックの始まりです。

ギリシャのポリス

 社会が再建されたギリシャですが、それに伴い人口も増加して土地が不足するように。するとギリシャ人の中には、地中海に出て、イタリアや北アフリカなどにもポリスを建設するようになりました。例えば南イタリアのナポリは、「ネオ・ポリス」という名前が訛ったものです。 地中海に出たことで、当時この海を牛耳っていたフェニキア人とも接触。その中でフェニキア文字がギリシャに伝わります。これがギリシャ文字となり、後にアルファベットへと変化していきました。再び文字を使うようになったことで、文学作品もこの頃生まれます。大詩人ホメロスの叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』や、ヘシオドスの『労働と日々』などはその中でも有名な作品です。

 

 ポリスの特徴として、国王や皇帝のような絶対的な権力者がいなかったことが挙げられます。アテネにはかつて王がいたとされますが、BC7世紀までに執政官(アルコン)と呼ばれる、政治を担う役職が登場してからは、貴族中心の政治が行われるようになりました。しかし少数の貴族に対し、戦争などで主力(重装歩兵)を務める平民は、自分達の権利を主張し始めました。BC7世紀後半のアテネでは、政治家ドラコンにより法律の文書化が行われます。これにより貴族は法を好き勝手に捻じ曲げることができなくなりました。

 

 スパルタはまた特殊で、独裁を防ぐべく常に2人の王がいました。この王と貴族による議会(長老会)と平民による民会によって政治運営がなされました。比較的豊かだったこの地では、貿易は軽視され、鎖国政策が行われます。その中で男性には自国を護るべく厳しい軍事訓練が課せられました。これには支配層(ドーリス人)が先住民を征服してスパルタを建国した点が背景にあり、奴隷身分に落とされた先住民が、人口の圧倒的多数を占めていたからでした。その結果、スパルタ市民は奴隷の反乱におびえる、いつも胃に穴が空くような生活を送っていたワケです。

ギリシャ以外のヨーロッパ

 はBC10世紀以降ヨーロッパ大陸にも伝わり、それまで青銅器しか使えなかった現地の人々の生活を塗り替えていきます。

 中部ヨーロッパ、現在のオーストリアやチェコにかけての地域にはBC8世紀頃からハルシュタット文化が栄えました。この文化の出土品から鉄製の剣などが見つかっており、また立派な建物や城塞の跡も見られることから、すでに国王のような身分の高い人物が社会にいたことがうかがえます。

 

 イタリアには、エトルリア人などの先住民がいましたが、BC1000年以降、ラテン系の人々が移住してきます。伝承ではBC753年、ロムルスレムスの兄弟により、都市国家ローマが建国されたと伝えられています。当時のローマには国王がおり、しかも建国後100年ほど経つと、先住のエトルリア人が王座につくようになりました。とはいえまだこの時代のローマは、イタリア半島の小国の一つに過ぎませんでした。

 

 バルカン半島には、トラキア人マケドニア人と呼ばれた人々がそれぞれの社会を形成していました。ギリシャのポリス社会と隣り合うこれらの地域はこの先、ギリシャの影響を強く受けるようになります。

中央アジア

 ユーラシアのど真ん中には、モンゴルからウクライナにかけて広い草原が続いています。歴史上この草原地帯を多くの遊牧民が駆け抜けて行きました。

 中でもBC8世紀、ウクライナからカザフスタンにかけての地を支配していたのが、スキタイと呼ばれる遊牧民です。馬を自在に操る彼らは、農耕民を襲う恐怖の存在であると共に、優れた戦士として時に戦争に雇われる(傭兵)こともありました。

 スキタイ人はまた、ライオンなど動物をかたどった美しい金細工を多数残したことでも知られており、それはヨーロッパの美術にも少なからぬ影響を与えたと考えられています。

インド

 インドでは、インダス文明崩壊後、この地にやってきたアーリヤ人が支配層となっていました。このアーリヤ人はBC1000年頃から、その拠点をインダス川より東へ移していきます。それが、インドの聖なる川、ガンジス川一帯でした。インドの叙事詩『ヴェーダ』はこのガンジス川一帯でも盛んに作られたことから、この時代を「後期ヴェーダ時代」と呼びます。

 ガンジス川では鉄器を使った稲作が始まり、人口も増加。その中で身分の差が生じていきます。BC800年頃までには、現在のカースト制度の原型である、バラモンをはじめとする身分制度が形作られたとされます。最高位のバラモンは農業や学問に関する知識を独占し、宗教(バラモン教)をもってそれ以外の身分を支配していきます。

 BC7世紀になると北インド各地にあった集落が拡大し、王国へと発展していきました。十六王国時代と呼ばれます。

中国

 BC11世紀にを破って成立したのがです。都は鎬京(現在の西安付近)に置かれました。この王朝では、王家の親族に地方を治めさせ、税や軍事的な義務を課す統治方法を採用しました。このようなやり方は封建制と呼ばれますが、後の時代ヨーロッパで実施された封建制とは名前は同じでも、かなり中身は異なるものです。受験生はご注意を!

周の封建社会

 

 王の親族はしかし、時間と共にその関係が薄れていき、他人同然となっていきます。当然の忠誠心もそれに比例して薄れていき、地方は自立していきました。BC770年までには中央勢力も2つに分裂し、互いに権力を争いました。この結果、都の鎬京は破壊され、残った王家は洛邑(現在の洛陽)に逃れました。これを機に周の力は弱まり、地方に独立した国が数多く建設されたことから、BC770年以前を「西周」、以後を「東周」と呼びます。

そして東周の王を保護し、実質的に実権を握る人物がたびたび出現。こうした実力者は「覇者」と呼ばれます。中国東部の国、にてBC7世紀に登場した桓公は、その代表的な人物でした。

 中国では稲作によりすでに巨大人口を抱えていました。その稲作はBC700年頃までには朝鮮半島にも伝わったと考えられています。

南アメリカ

 現在のペルーからボリビアにかけてのアンデス山脈では、BC10世紀頃から最初の文明が生まれます。チャビン文化をはじめとする、古代アンデス文明です。この文明では文字が使われなかったため、詳細は不明ですが、考古学研究によってその様子が少しずつ明らかになってきています。出土したチャビン文化の遺跡からは、大規模な神殿の跡や、ジャガーをかたどった石像などが見られ、古代人が独自の宗教や文化を持っていたことがわかります。チャビン文化はおおむねBC100年頃まで続いたと考えられています。

オセアニア

 アジアから進出して来たオーストロネシア系の人々は、BC1000年以降も太平洋の島々に広がっていきました。ユーラシア大陸に近いメラネシアやミクロネシアに続き、大陸から最も遠いポリネシアの地を人類が踏んだのは、BC10世紀以降のことで、BC9~8世紀にはトンガサモアにまで進出しました。

 オーストロネシア系の人々は土器を使っていました。考古学の調査では、互いに遠く離れたポリネシアの島々で、互いによく似た模様の土器が使われていたそうです。ラピタ文化と呼ばれています。無論その模様や形も、時と共に島ごとの特徴が現れるようになっていきます。

ラピタ文化

主な出来事

BC10c頃 チャビン文化隆盛(南アメリカ)

    バントゥー系民族、移動開始(アフリカ)

    クシュ王国成立(東アフリカ)

    アーリヤ人、ガンジス川に進出(インド)

    ポリネシアに人類進出(オセアニア)

BC965 ソロモン王即位(西アジア)

BC922 イスラエル王国分裂(西アジア)

 

BC9c 中部ヨーロッパで鉄器使用広まる

    ウラルトゥ王国拡大(西アジア~コーカサス地方)

    アッシュールナツィルパル2世、アッシリア再建(西アジア)

BC814 カルタゴ建設(北アフリカ)

BC800頃 ホメロス『イリアス』『オデュッセイア』制作(ギリシャ)

 

 

BC8c スキタイ出現(中央アジア)

    インドにヴァルナ成立

BC776 オリンポス祭典始まる(ギリシャ)

BC770 東周時代開始(中国)

BC750頃 ギリシャにポリス建設本格化

      この頃までに人類がトンガ、サモアなどに進出(オセアニア)

BC753 ローマ建設(伝承)(イタリア)

BC744 アッシリアにティグラトピレセル3世即位(西アジア)

BC730頃 クシュ王国、エジプトを支配(東アフリカ)

BC722 アッシリアのサルゴン2世、イスラエル王国滅ぼす(西アジア)

BC701 センナケリブ、ユダ王国侵攻も属国として生き残る(西アジア)

BC700頃 この頃までに稲作、朝鮮半島に伝わる(東アジア)

 

BC7c アテネでアルコンの職設置(ギリシャ)

    インド十六国時代始まる

BC680頃 イエメンのカリブイル王、アウサーン王国滅ぼす(西アジア)

BC669 アッシュール・バニパル即位~626(西アジア)

BC671 アッシリア、エジプト支配(西アジア)

BC7c半ば 桓公、楚を撃退し、覇者となる(中国)

BC625 新バビロニア王国、アッシリアから分離(西アジア)

BC621頃 アテネでドラコンの改革(ギリシャ)

BC612 アッシリア分裂(西アジア)

BC610頃 スパルタ、リュクルゴス制導入(ギリシャ)

BC609 メギドの戦い(西アジア)

BC605 カルケミシュの戦い(西アジア)

 

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